紀行文学とか
旅とは、旅である。それはそうだ、そうでないはずがない。こんなふうに書くのも恥ずかしい。ほかに書きうる表現はないものか、じつに幼稚である。
とはいえそれはあえて書く真でもある。おそらくほとんどの人にとって、それはそうである。それ以上でもなければそれ以下でもない。旅は旅以上でなく旅以下でない。旅の目的は旅をすることであって、旅をしたいから旅に出るのである。往々にして、たいていは、大半が、ほぼ例外なく。
そうでないとするなら。
写真の心得がある方がいよう。ときにその人にとって旅とは、写真である、となりうる。逆は必ずしも真ならず、ながら、なかには写真とは、旅である、とまでいい切れる人がいるかもしれない。旅に出てはレンズを向け、カメラに収める。あるいは自他の写真を見ては欲をかき立てられ、またカメラを持って旅に出る。
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旅は、文学である。そして、逆も。文学は、旅である。
僕が文学を語るなど次元が異なりすぎて、その言葉を使うこともおこがましいからここで片すけど、それもまたある世界だ。
文章、あるいは文字から生まれる風景は、じつははるかに生々しい。比較するなら、写真こそ現実的で具体的で断定的である。真実である。対して文字から生まれる風景にそれらはない。真実でさえない。でも皮膚に触れる風までも感じさせてありありと浮かび上がらせることがある。
僕の好きな紀行文を挙げてみる。たとえば『佐渡』、太宰治である。太宰中期のピークといわれる時期に書かれたこれは、新潟の高等学校で講演をし、その翌日から佐渡を二泊する旅を記したものだ。高等学校の生徒や、旅館の番頭、女中たちとの会話と、太宰らしい無粋な対応が、行程を演出して三次元の想像をかき立てる。
宮沢賢治の『秋田街道』も好きだ。やがて詩人・童話作家として作品を残していく宮沢が、学生時代に文学仲間と夜通しで盛岡から雫石まで歩いた記録だ。詩人の片りんたる宮沢らしい描写に載せて、きっと集まった若者たちが
どちらも、いわば無名の作品だ。なのに彼らの傑出した作品たちよりはるかに僕は好きだ。物語ではなく紀行文だからかもしれない。旅に、出たくなるからかもしれない。
僕も、あるいは文字にするために旅に出ているのかもしれない。旅を終えたら文字にしている、その原動力はそれなのかもしれない。