自転車旅CAFE

自転車を中心とした、旅のエッセイ

日の沈まない海という風景

 僕が自転車で走るルートを作るとき、いつもストーリィを見立てて引いている。小説を書くように、と何度かここで書いたかもしれないけど、そんな感じ。ただ小説と違うのは、ストーリィが、自分が作り上げたものですべてじゃないという点。引いたルートがすべて、一度でも自分で走ったことのある道で構成されていれば、自分で作った物語に自然と近づくだろうけど、たいていは僕が走ったことのない道ばかりだから。走ってみて初めてそれを受け止める。だから自転車のルートって、ストーリィをイメージして作るものの、じっさいのストーリィは予測不能でもある。イメージどおりのこともあれば、まったく違ったストーリィだったってこともある(むしろこの方が多い)。まったく違っていたとしても、悪いときもあるけれど、原作(イメージ)を超える作品もあまたある。

 

 ルートのストーリィは、地図を見ながら想像をふくらませる。まずその前に、行きたいと僕がため込んでいた道路やまちや場所のカードをばら撒いて、ひとくくりにできそうなカードを拾い上げる。もちろん、脳内作業だけど(笑)。それらをもとにルートを作り、妄想イメージをふくらませていく。地図から見た想像しか材料はないけど、そこから妄想は広がり、結果、出だしからしばらくのちょっとしたまちは自分のまちともそう変わらないだろうから構えずに静かな気分で走っていけるだろうとか、山に入るここから物語は大きな展開を見せるなとか、途中小さな集落を見つけたならきっとここまでの展開で左に右に振り回され続けてるだろうから気分をホッとさせてくれる場所に違いない食事もここでできるといいなとか、エンディングは、ここにルートを取ればまた全然違う大胆な展開であっといわされるんだろうとか、あるいは逆に懐かしい風景が残るこのまちをゴールにすれば昂揚をゆっくり落ち着かせながら静かに幕を引けるなとか、まあそんなふうに考えながらルートを引いているわけです。出来上がった一本のルートは一冊の本のように、あるいは一篇の映画フィルムのように、僕にそのストーリィを見せてくれる。

 

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 山中をめぐるルートの場合あまり差は出ないのだけど、海に近いところを走るとき、その向き──つまり方角でストーリィに差が生まれる場合がある。
『海に夕日が沈むか沈まないか』
 だ。
 たとえば房総半島。伊豆半島でもいい。東と西に海があるからわかりやすい。こういうところを走るときに、西から東へ走るのか、東から西へ走るのか、だ。海岸線を走るにしても内陸横断をするにしても。完全横断をしなくても途中内陸から走り始めて最終は海に出るようなルートもまた、それが西なのか東なのかで印象は変わる。
 サイクリングの入門書にならうなら、半島は時計まわりに走るのがセオリー(島も同様、湖は反時計まわり)。左側通行の日本ゆえ、つねに海辺に近い側を走れ、交差点も少ない道になるから、というのが挙げられる理由でよく見るけど、僕ももうそんなことをいうお年頃でもなく……。
 まあそんなことはどうでもよくて、じっさいのルートの話。西岸でゴールすると、海に沈む夕日を眺めてストーリィは終わる。逆に東岸でゴールすると夕日は陸や山の向こう側で、ただただ暗くなっていく海を見ることになる。
 やっぱり定番だけど、海に沈む夕日はいい。僕が埼玉県の人間で、そこは海なし県だからというのを差し引いても、いい。展開が、わかっているくせにドラマチックだ。それに魅せられ20分でも30分でも、そこにいてしまう。砂浜の海岸線は受け止めきれない広さを全身で感じるし、漁港であれば夕日を反射しながら波にゆっくり揺れる漁船の不規則な列から、写真に何枚収めても写し込むことのできないこみあげてくる気分がある。岩場もまたしかり、そのひとつひとつに表情があるなら、日中見ていた岩の顔とは違うトーンを見せるし、夕日を受けて輝くのは、岩が持つエナジーやソウルが見えるからだというなら、そうだ。房総半島だと対岸の三浦半島の台地がすぐ先に見えるけど、さらに先に座す富士山の背後に沈んでいくさまは、あいだに海をはさんでいるだけでやっぱり、海に沈みゆく夕日になるのだ。西伊豆で走りながら迎えた日没は、海というレンズを通して見た太陽の、沈みゆく一部始終を、ずっと走りながら横目に見られるという機会だった。そして赤に染まった富士山も、見えていた。
 対する東岸はそんな華やかさがみじんもない。ただ、暗くなっていく。昼が、夜に移っていくだけだ。たとえば色。果てがなくどこまでも突き抜けている空のスカイブルーと、どこまでも深くその実体がつかめない海のシーブルー、この色が変わっていく。西の海が夕日に染まりやがて抜けるように色を失っていくのに対し、東の海は深いシーブルーから夜の漆黒に色を変える。それも、そこに青があったことを人々の記憶から消してしまうくらい、すべてを塗り替えたように色が変わる。空は夕焼けを反射するようにいく筋かの茜色を映し出すけど、そのころにはもう海は漆黒だ。東の空が夕焼けに染まり切れないのは、その海を反射しているからかもしれない。夕暮れの東岸は、漆黒に変わった海から白く立った波が変わらずに打ち寄せる。変に、波の音が大きくなったように聞こえる。

 

 海へ行くなら、沈む夕日をエンディングに持って来られるよう、ルートを引くことが多かった。伊豆半島は西と東の道路やポイントやまちのカラーがあまりにも違って、持っている魅力がそれぞれ別のものだから、夕日以外の要素も含めてゴールを選ぶけど、たとえば房総なんかは内房をゴールに据えようと心掛けていた。ドラマチック、一日の終る感、そういったすべてをひっくるめて夕日は表現してくれるし、仮にその日のルーティングが失敗してサイクリングにいいところがひとつもなかったとしても、それを帳消しにして余りある。判で押したように、西の海岸へ向かっていた。
 あるとき、外房の海を目指して走った。そういうルートだった。たどり着いたのは夕刻で、ちょうど昼から夜へ切り替わろうとするそのときだった。まち、道路、風景そんななにもかもが僕には物憂げに映った。あるいはすぐに闇に変わっていくだろうという実感が湧き、不安というか恐怖めいた感情が芽生えたかもしれない。闇は徐々にせまるのではなくひと息に覆いかぶさるようだった。そういったものも全部含めた実体感情は、切なさだった。その切なさは、つらかったり耐えがたかったりするものじゃなかった。むしろ自分が欲しているような気がした。そこにあることで逆に心落ち着くものだった。この切なさをもっと感じ続けたいと思った。切なくいたいという感情は不思議にも思えたけど、事実だった。僕はそれからしばらく、自転車を降りずに外房の海を走り続けた。予定の駅よりもさらに先へ海岸線を走った。何の前触れもなく海は漆黒に変わった。遅れて、空が平板な濃いめの群青色に変わった。まちにも道にも風景にも、若干の明るさが残っているのに、海とその上の空はもう、夜だった。
 偶然にして知ったその感情をエンディングにしたくて、僕は外房の海をゴールにすることが増えた。何ともいえない切なさが、でも増幅して押し寄せるんじゃなくて気持の片隅に宿ってそのまま居続ける、僕はこういう終幕のほうが好きなんだと気付く。思ってもみない大どんでん返しや、水戸黄門の印籠のような派手な演出よりも、静かに、でもどこかに小さな引っかかりを残すような基本平板なストーリィのほうが好きなんだと。それを、知る。
 南伊豆を走ったとき、西から下田へ向かっていた。伊豆は海岸線がどこもアップダウンの応酬で、そのときのルートも時間を見誤った。石廊崎灯台に着いたときはもう、白亜の灯台が赤く染まり始めていた。春の風ももうその時間になれば冷たいばかりだった。石廊崎伊豆半島の南端で、ここを過ぎると半島も東岸になる。黒船もやってきた下田は伊豆の最南端のイメージを持っていたけれど、残り20キロは東岸を上っていくルートだった。狙っていたわけじゃなかった。エンディングストーリィを築き上げたわけじゃなく、ただ鉄道が来る終点が下田だっただけだ。でもこの20キロは僕にとっていい時間だった。僕に脚があってもっとがんがん走れていたら、昼間のうちに走り切れてしまえただろう。このエンディングを迎えることはできなかった。僕は気持のなかに少しばかり重たいものを沈めたまま、伊豆急ボックスシートに身を収めた。真っ暗で海も空も見えず、自分の顔しか映らない夜の車内はすいていた。車内の自動放送まで、切なく思えた。

 

 

 日の沈まないほうの海の夕暮れが、好きである。

 

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