自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

秋、栃木県北紅葉めぐり/後編(Oct-2019)

前編から続く

 

「寒いです」
 そう僕は答えた。坂を上ってくるあいだは青い空から覗く日が差し込んで暖かかったし、急な勾配もあったからそこでは汗もかいた。栃木県道249号・黒部西川線、鬼怒川から川治と走ってこの道に入った僕とうっちぃさんは、土呂部どろぶを経てようやくこの道のピークにたどり着き、越えた先で望んだ山々の、目の当たりにした紅葉風景に息をのんで足を止めていた。

 

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 さまざまな色の木々が織りなす紅葉の情景に見惚れ、そのきぬ をまとった全方位の山々に圧倒されていた。日常的に自分界隈で目にしている色って果たしてどんなだっただろう──僕の記憶にある色の平均的概念を壊し、いとも簡単に掃いて捨ててしまった。これは大自然だ。これが大自然だ。それしか思いつかない。
 ピークを越えて、同時に空気が変わったのを感じた。風が冷たいのだ。峠の向こうとこちらで気温が明らかに何度か違うのだ。心地よさも覚えながら上ってきたさっきまでとは違う場所にいるようだった。うっちぃさんも同様に感じたらしく、僕に寒くないですかと聞いた。
 峠の向こう側とこちら側で気候が異なる場所なのかもしれない。地形を隔てる山稜を越える場合などによくあることだ。あるいは向こう側とこちら側で天気が違ったのかもしれない。それともこの山周辺一帯、天気が変わり風が入れ替わったのだろうか。
 さっきまでの秋の青空を覆い隠すように、いやに重たい黒みを帯びた分厚い雲が広がっているのがわかった。
「太陽の光が届かないと途端に寒いですね」
 とうっちぃさんがいう。そのとおりだった。そして風も違っていた。
 上、着ます? 着ましょう、そう言葉を交わし、ふたりで上着を羽織った。
「おなかもすきましたし、湯西川温泉まで下って何か食べましょう」
 と僕はいった。
「そうしましょう」

 

 この絶景たる湯西川から福島県境に連なる山々の光景を、ときどき立ち止まり眺めながら下れたらと思っていた。しかしそんなことかなわぬほどの寒さを実感し、下るのが第一優先になってしまった。それほどの寒さだった。それに、雨が降ってきた。
 まさかと思った。でも最初の、体に当たったほんのかすかな一滴で、それが雨なのだと気づいた。峠に向かって広がっていた気持まで透き通るほどの青空は、今や雨雲に取って代わっていた。峠で費やした、おそらく10分にも満たないほどの滞在時間での出来事だった。あきらめるも、せいぜい小雨のまま湯西川の温泉街まで何とか持ってくれ、そう思うばかり。紅葉を眺めながら下るなんて意識はもう完全に消え去っている。ゼロだ。本格的に降り出さないことを祈った。
 でもそれさえかなわなかった。雨はだんだんとその存在感を明確にした。気付くと、しとしとと、音を立てていた。かろうじてそれほど体を濡らしてこないのは、道路に覆いかぶさった木々がまだ降り始めで濡れていないからだった。彼らが雨をしのいでくれ、いわば傘になっている。ときおり木々が途切れると、体全体で雨の量を感じた。路面もしっかり濡れていた。さっきまでの晴れ間なんて思い出せないほど、空は雨の厚い雲に覆われてしまった。
 体に、何かが当たったような気がした。ヘルメットがこつんと音を立てた気がした。
 やれやれ。温泉街まであとどれくらいあるんだ?
 下りだからって、そう簡単に先に進めるわけじゃなかった。距離もあった。いつまでたっても温泉街にたどり着かなかった。そんななか雨が上がる気配もなかった。こんな予報だったか? 降り続く雨はもう路面をしっかり濡らしていた。雨が一時的なものでなく、このまま降り続けるようなことがあるのなら、温泉街で食事なんかしている場合じゃない。さらに先、駅まで走り切ってしまわないとだめなんじゃないか、そんなことまで考え始めた。一気にゴールしてあとはもう帰る、そう計画変更せざるを得ないほどの雨降りになってきた。僕は雨空を憂いた。紅葉を横目で見ることはあれど、止まることもカメラを出すこともなかった。

 

 

 昨日、僕は自宅から中川沿いを走った。
 僕の住む越谷から、中川周辺は手軽でいい道だ。川に沿ったり離れたりを繰り返しながら、幸手の権現堂まで行くことができる。この道を足慣らしに走った。
 結果的に自転車からしばらく離れていた。
 2019年秋。週末はお天気から完全に見放されていた。本当に毎週々々の週末だ。台風さえやってきた。それも災害級の。自転車に乗るとかそんな意識すら芽生えないほど、週末になると荒天ばかり続いた。
 そんなわけでずうっと自転車に乗っていなかった。ようやく週末の天気が持ちそうだった(しかしすっきり晴れとは出ないのだ)。土呂部の紅葉めぐりサイクリングを決行とし、意気込んだ前日になまった足を慣らすため自転車を引っ張り出した。少しでも近所を走っておこうと中川に向かった。

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 前日関東に大雨を降らせた低気圧は、またもや台風のような増水をもたらして去っていった。だからまるで台風一過のような空だった。中川を走りながら、筑波山、日光連山、赤城山秩父連山から丹沢方面、そしてその向こうに雪を頂いた富士山が、一望できた。
 そんな気分の良さがあって、幸手からさらに栗橋に抜け、そのまま利根川も渡った。

 

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 ひととおり楽しんだ。あとは明日一日もってくれよ、と足慣らしを終えた。

 

 

 ──結局、天気はもってくれなかった。

 

 土呂部から湯西川温泉に向け、徐々に標高を下げてきた。そのあいだブレーキの利きとスリップを絶えず気にしなくちゃならなかった。それだけ雨が降り路面を濡らしていた。それに何より寒かった。ピークの標高1,200メートルから1,000メートルを割り、温泉街の700メートルまで下ってきたのに、一向に気温が戻る気配がなかった。ウィンドブレーカーを着ているとはいえ冷えてしまった体が温まるわけじゃない。なんとか震えなく下りてこられたものの、さらに走ればより冷えることは間違いない。震えが出るのも時間の問題かもしれない。体を温めるなら、何か食べるしかない。
 しかしながら雨はやまない。
 ずいぶん時間をかけて温泉旅館が建ち並ぶ中心街まで下りてきた。まちはこの天気のせいか、あるいは日曜日の午後だからか、歩く人もない。このあたりが中心なのに。路肩に駐車する車はあるものの、往来する車も多くない。名の知れた温泉街が、暗い雨空も手伝って華やかさもなく殺風景に映る。
「どうしたもんでしょうね……」
 山城屋という旅館の前にあるバス停で止まった。温泉街の中心のバス停はベンチがあり屋根があった。僕らは雨から逃げるようにこの屋根の下に潜り込んだ。ヘルメットを脱ぐと、そこから雨水がしたたり落ちた。
「この状況が続くようならもう一気に駅まで走っちゃうのも手ですよね」
 そう僕がいうと、
「雨雲レーダー見てみましょう」
 とうっちぃさんがいった。濡れた手を拭き、スマホを確認してくれる。「おっ、一時間後にいったん上がりますね」
「まじですか? それありがたいですね。ということは──」
「食事、ですね」
「ですね」
 湯西川温泉街と湯西川温泉の駅は10キロ以上の距離がある。あきらめて走り切るにもかなりの距離だ。もう絶対にやまないとか、より一層強くなるとか、そんな状況なら走ってしまうのも選択肢だけど、一時間後に上がる可能性があるならその瞬間に賭けるほうがいい。温泉街を出れば駅までもう休むところもないから、レーダーの予想がどれだけ当たるのかわからないけど僕らは迷わず食事休憩を選択した。
 近くに温泉街の略図があったので現在地からいちばん近い食事処を探した。そこまで数百メートル、僕らはもう一度雨の中に出た。
「ちなみにこないだから試してる新しいGPSマップ、気温計がついてるんですよ。何度だか知りたいですか?」
 うっちぃさんが走りながらいう。
「何度ですか?」
「11度です」
 前夜、家で見たてんくらでの予報、土呂部、湯西川からいちばん近い高倉山で見て、標高1,000メートルの気温が12度、1,500メートルで8度だった。しかしここ湯西川温泉街は700メートル。ここで11度とは、つまり明らかに予報より寒いってことだ。
 食堂の前で自転車を止める。ストーブがついてるといいですねと話した。
「あ、そうそう。上でみぞれかあられか、そんなの降られませんでした?」
 とうっちぃさんがいう。あの硬いものが体に当たる感触、こつんこつんと音を立てるヘルメット──。
「あれ、そうだったんですか、やっぱり。体に当たるし、なんか雨と違うなあと思ったんですよ」
 店に入り、どこでもどうぞ~と促されてテーブル席に着く。温かいそばを頼み、鹿刺しを頼む。店のなかはほかに、小さい子を連れた地元と思しきお母さんと、中年夫婦の温泉観光客と、中年夫婦のハイカーがいた。しばらくあとでバイク乗りの6人の集団が入ってきた。店のなかはそれなりに客入りがあり席を埋めていたものの、強くはないもののシトシトとしっかり降っている外の雨と変わらないくらいの静かさだった。食事を終えてさらにコーヒーも飲んだ。ずいぶんゆっくりくつろいだ。僕らよりあとに入ってきたバイク集団は、僕らよりも先に店を出ていった。

 

「雨雲レーダーってよく当たるもんですね」
 とうっちぃさんがいう。
 店を出ると雨は上がっていた。分厚い雲は変わらなかったけど、降っていないだけだいぶいい。店で一時間近くくつろぎ、さっきうっちぃさんが見てくれた「一時間後のすき間」にきっと入り込めたのだ。
「ただ、うかうかしてられないですけどね。あと1時間すると第二陣がやってきます」
「まさに移動するなら今ってことですね」
 温泉街から湯西川温泉の駅まで10キロ少々。1時間ほどで着けるはず。
 そんな計算をしながら自転車を準備していると、隣のテーブルで食事をしていた中年夫婦のハイカーが店から出てきた。僕らを見るなり、
「自転車? 自転車でここに来たの?」
 とお父さんがびっくりした表情でいう。──よくある話だ。
「はぁ~、これでどっから来たの?」
「鬼怒川です。川治をまわってずっと上って、ここの後ろの山から下ってきました」
 とうっちぃさんが答える。
 今度はお母さんのほうが紅葉はどうだとかこの天気じゃ大変でしょうとか矢継ぎ早に聞いてくる。そしてお父さんが、
「まぁあれだ、火野正平みたいなもんだ」
 といった。
「そうですね、まさにあれです」
 うっちぃさんが笑ってそう答えている。
 じゃあね、気を付けてねといって夫婦は歩いてどこかへ消えていった。
火野正平の認知度はすごいですね、いつも驚かされる」
「確かに」そう僕は答える。サイクリング中に、あるいは輪行中に、こうやって話しかけられることがあれば、たいてい引き合いに出されるのは火野正平氏である。特に中年世代以上にその傾向を見る。BS放送ながら、それだけ見ている人がいるということに驚く。

 

 温泉街を抜けしばらく行くと、まだ新しい道路に入った。
 県道249号は湯西川温泉から西川(つまり湯西川温泉駅のあたり)まで、新しい道路が敷かれている。湯西川ダムの建設によってダム湖に沈んだかつての道の付け替えである。
「トンネルと橋ばっかりの道ですよね?」
 とうっちぃさんがいう。
「そうです」
「だったら降っても半分は濡れずに済みますね。一気に行きましょう」
 快適な舗装道路ながら、ダム湖の水面をかわすために一度山の斜面を上る。坂を上ってトンネルに突入した。
 ここは湯西川温泉へ行く車くらいしか通らないし、湯西川温泉でも車が少なかったこともあってか、道路自体走る車がほとんどない。トンネルに入ってしまえばむしろこちらのほうが快適だった。が、残念ながら路面の濡れ、、はトンネルの奥深くまで続いていた。自転車のタイヤは路面の濡れを大きく跳ね上げてくる。だから少しでも乾いたところを選んで走った。
「第二陣からこのまま逃げ切れるといいですね」
「1時間あれば大丈夫でしょう」
 トンネルを抜ける。明るくなる。またトンネルに入り、抜ける。また明るくなる。それがどんどん明るさを増しているように思う。またトンネルに入る。抜ける。そこはロングスパンの橋梁で、三脚にどデカいカメラとレンズを付けたカメラマンが数人、欄干からダム湖を狙っていた。
 つい、つられて止まる。
 僕が止まるものだからうっちぃさんも止まる。
「これは、なにを?」
 うっちぃさんはそのあまりに高価な機材とただの橋の上というミスマッチをつなげられず、いう。
「おそらくなんですけど、ダム湖に沈んだ木々を狙っているんじゃないかなと」
 僕ははじめ紅葉ハンターかと思った彼らのレンズが、みな湖面に向かっているのに気づき、想像でそういった。
 葉はすべてなくなり、枝もほとんど落ち、天に一直線に向かう幹に近い部分だけが湖面から出ている。水に埋もれ、死んだ木たちだ。命を失い、葉も枝も落ちた木たちだ。この木々を写そうとしているんじゃないかって思う。
「われわれも撮りますか」
 そういって自転車を止めた。
 湖面を狙い何枚かシャッターを切る。場所を変えて、あるいは橋の反対側へ行きまたさらに。そうしているうちにうっちぃさんが周囲に気づき、
「っていうか、紅葉ですよ」
 といった。
 土呂部の千メートル以上の標高から下ってきたときとさほど変わらない、見事な山の色づきがあった。このあたりは700メートル近辺まで下ってきてもこれだけ紅葉しているのか──。
 紅葉をまとった山々は、その姿を湖面にも映していた。
 そして何より、また青空が顔を覗かせている。
 見事。

 

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 トンネルと橋、トンネルと橋を繰り返しながら進んでいく。かなり降ったとみられ、橋の上はおろか、トンネルの奥深く、トンネルによっては出口まですべて路面が濡れていた。それでもトンネルから出た瞬間の日差しはまぶしいほどになっていた。濡れた路面に反射して、まぶしさが一層増した。
 前後入れ替わって前にいたうっちぃさんが、湯西川ダムに寄りましょうよ、という。
「もうここまでくればすぐだから、大丈夫ですよね」
 まったく一気に駅に向かっていない(笑)。
 僕らは柵に自転車を立てかけ、ダムの築堤から怖いほどはるか下を流れる川を覗き込んだ。

 

(本日のルート)

 

 

★お世話になったうっちぃさんのブログ

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