自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

上総内陸から竹岡ラーメンへ - 後編(Dec-2018)

前編から続く

 

 引いたルートの道がなかったから、僕らはそこにある案内標識──と呼んでいいものなのだろうか──にしたがって右に下ることにした。これから向かう養老渓谷の文字がそこに書かれていたからだ。左側なんか読めやしない。左側の字を当てようとO君と連想ゲームをしたのだけど、答えの確証も得られなそうだし、なにより寒いからさっさと先に進むことにした。

 

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 そういえばさっきの緑色に変色したの案内標識、養老渓谷に並んで畜産なんとかと書いてあった。そのとおりで、下り坂を走りながら、左右の山の斜面に養鶏場だか養豚場だか、そんな建物がたくさんあるのを見た。しかしどこも静かで、いるのかいないのか、起きているのか寝てるのか、そんな畜産場ばかりだった。道は細く、カーブを連続させながら下って、広い道に出た。この道を下ればすぐ、県道32号大多喜君津線に突き当たる。もう養老渓谷だ。

 

(本日のルート)

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GPSログ

 

 

 養老渓谷の駅前ロータリーに入った。トイレはそこにあるとO君に声をかけた。グッドタイミングでした、というので、そうでしょ、といった。トイレに入ろうとすると、ホームに気動車が止まっていた。汽車いるよ、とO君にいった。五井ゆきはまさに発車しようとするところ。プシューっというエア音とともに扉が閉まり、エンジンの回転数を高め、ゆっくりと進出して行った。駅係員が敬礼ののち列車に手を振っていた。
「汽車見られるなんてすごいタイミングだよ」
「そうなんすか?」
「ここ、数時間に一本しか来ないから」
「マジすか」
「TX(つくばエクスプレスのこと)よりも少ないだろ?」
「何いってんすか、少ないとかじゃなくてTXは10分に一本ふつうに来ますよ」
 駅前にイベントテントが出ていた。のぞいてみるとジビエ&発酵フェアと書いてある。食べものもいくつか出ている。見ながら、寒くないすか? とO君がいう。寒いねかなりと答えると、日が陰っちゃったんすよという。見上げると空は灰色の雲に覆われていた。確かにこれは寒い、と僕はいった。
「ぼたん汁、買おうっかな」
 寒さに耐えられず、そしてまだ竹岡までずいぶん距離もあることから、食べることにした。すると、
「あ、俺も食べる」
 とO君も同調した。ジビエラーメンにはしないほうがいいよっていうと、しませんよこれからラーメン食いに行くんだからといった。
 発泡スチロールのどんぶりに注がれたぼたん汁(いのしし汁)をもらい、ベンチに座った。これをかけて食べてねとテントのおばちゃんがいい、七味を渡してくれたので、寒いしたっぷりかけた。それから七味をO君に渡す。風が背中から強く吹き付けている。太陽も出ていないしどうしたって寒い。背中を丸めて小さくなりながらぼたん汁をすすった。少しでも風を避けられるところに行きません? と彼がいうので、駅舎の脇のベンチへ移動した。しかし冷たくて強い風は変わることはなかった。
「こんなに風吹くんでしたっけ?」
「俺が朝見たtenki.jpは午前中2メートル、午後1メートルだったんだけどね」
 僕はそういってスマートフォンを取り出し、別の天気サイトを見てみた。ウェザーニューズ提供の情報では、市原市の風速は4メートル、少なくとも午後3時まではそんなようすだった。
「こっちが正解じゃないっすか?」
「確かに。こっちもちゃんと見ておきゃよかった」
 どこかから、空になった発泡スチロールの丼が風に吹き飛ばされて転がってきた。これがやまないのだとするときつい。もちろん風もきついのだけど寒さがこたえる。日が陰ってしまって北風の独壇場になってしまった。

 

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 養老渓谷沿いの道を行く。紅葉では話題になる場所だと思っていたけど、紅葉も終るとこうも人がいないのか。閑散としているというよりほぼ無人。渓谷の名物赤い橋をひと組のカップルが渡っているくらいだった。車もほとんど走っていない。たまたまのタイミングかもしれないけど、そんな観光地を通過した。
 ぽつっと手に当たった感触。見上げればグレーの空。身体全体をこわばらせるように力を込めれば、細胞のあいだが締まって寒さに抵抗できるかな、などと根拠なく考えた。しかし降っちゃったら寒いどころじゃないなと思う。冷たい風に耐えつつ坂を下った老川の十字路で国道465号へ入った。
 さっきからO君が膝が痛いといっている。脚も半分つった状態だし、それをかばって走っているからかもという。やれやれここから房総半島の丘陵山塊をいくつも越えて行くから上り下りの繰り返しなのだけど、なんとか持ちこたえてくれるか。
 まず筒森の丘陵部を越える。ずいぶん国道465号もいい道になったと思う。ほんの10年前で、ミニバンクラスの乗用車でもすれ違うのが大変な箇所を持っていたのが房総の3桁国道だ。今や2車線の高規格道路で大径の新筒森トンネルを越えて行く。ただしここはトンネルの上の丘陵部に集落があるので、旧道と筒森トンネルも現役だ。今日は新道を選択した。それでも新筒森トンネルまで上り。トンネルを抜けると一度下って今度は黄和田畑に抜ける蔵玉トンネルまで上り。この蔵玉トンネルへ向けて、道は昔ながらの房総3桁国道らしさを残している。センターラインなしの1.5車線が、枯れた畑の脇をゆるゆると上っていく。
 こんなふうにいくつかのトンネルと、その前後の上り下りを経て亀山湖を目指していった。道はセンターラインが現れて2車線の広めの道になったり、気まぐれにセンターラインがなくなり細くなったりを繰り返した。ぽつっときた雨は幸い続かなかった。しかし空は重めの曇りのまま。寒さは変わっていない。
 亀山湖に近くなったころ、さすがに身体をこわばらせていることに疲れてしまって、脇に見つけた自動販売機で立ち止まった。
「──寒いっ。なんかあったかいものを」
「めっちゃ寒いっす」
「何にするか……」
 と僕が自販機を見ていると、
「マックスでしょ」
 とO君がいう。「つくばでもこれ売ってますからね。みんな飲んでますよ」
 それってまるでサプリメントエナジードリンクみたいないい方だな、と僕は笑った。練乳入りコーヒーを飲む気はなかったのだけど、そういわれてからほかのものが目に入ってこなくなって、結局買ってしまった。

 

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「ひざ、どうよ」
 僕は腰をおろして温かいマックスコーヒーを飲む。甘っ……。
「ダメっす、痛いっす」
「脚がつりそうなのは?」
「いやもうほぼつってますし」
 僕は笑った。「もうどうしようもなくダメダメじゃん」
「そうっすよ、ダメダメっすよ……」
 朝ごはんに食べようと思って持ってきたものの、残したふたつ入り蒸しパンがバッグのなかにあったので、それを出してひとつを彼に放った。キャッチし、あざっす、という。
 蒸しパンを食べ、マックスコーヒーを飲んで寒さに入りこまれないように気をつけつつ身体を伸ばしていると、男女の二台の自転車が走ってきた。ぴたりとついて、かなりのスピードで目の前を通過していく。寒くないのかなぁなんて思う。
「あっ……」
 とO君が小さな声を出す。「S-WORKSだった」
「なに? 朝のコンビニの?」
「そうす」
 亀山湖から、つまり僕らと反対側から走ってきた。どこをまわってどこから来たのだろう。いずれにせよこの上総内陸は、どういうコースを取っても細かな坂が多くて、峠のようにガツンとくるわけじゃないけど、上ったり下ったりで平地がなくじわじわ消耗させるところばかりだ。乗り続けてあのペースで走っていられるっていうのはすごいなって思う。
「行くべ」
「トイレってありますかね」
「探してる。ダムやその周辺に公園があるから、何か見つけたらすぐ入るから」
「すんません」
「いや、俺も行きたいから」
 本当に今日の寒さはトイレとの戦い。ハルンケア持参を本気で考えたほうがいい。

 

 公園でトイレを済ませ、小櫃川を渡ろうと引いたルートは、橋を渡るんじゃなくダムの築堤で横切っていた。ダムからは丘陵部集落のなかの路地の急勾配を上って久留里街道を横切るつもりにしていた。しかしその交差点に出たとき、真正面に見えるトンネルをバリケードが封鎖していて、通行止めのでかでかとした看板が立ててあるのが見えた。
 またしても迂回だった。久留里街道から丘陵上の集落に向かうきわめて細い里みちを一本ガーミン上見つけたけど、確実につながっているかもわからず、ラーメンの時間も考えると久留里街道から国道410号松丘まわりを選択せざるを得なかった。
 おかげで、というわけじゃないけれど、房総3桁国道の最後の酷道区間ともいわれる大戸見おおとみ狭あい区間を走ることになった。入口すら見失うほどで、行きすぎて戻った。トンネルは国道なのに手掘りセメント吹き付けで、どう見ても離合なんて出来っこないのがわかる。
 ちなみにウィキペディアには「この区間には国道標識すらない」とあるけれど、じっさいにはひとつ、「オニギリ」がある。国道465号も重複区間ではあるけれど、栃木県で見るような団子状にはなっていない。

 

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 延々と上りと下りをくり返し──道はずっと国道465号で、しかしながら今日は全線走破を狙ったサイクリングじゃない──、O君は脚つりとひざ痛と戦い、何時間かぶりに認めたコンビニに入った。ぼたん汁と蒸しパンとマックスコーヒーですっかりお腹がいっぱいだ。あれから2時間近くになるけれど、最近使い始めたMCTオイルのせいでお腹がすきにくいのか。トイレだけ借りて何も買わないのも忍びないけど、何も食べられない。このままラーメンに向かって大丈夫なのかとさえ思う。ラーメンまでそんなに距離もない。でも今日は宿泊旅用の大容量サドルバッグで来ていたことを思い出し、アルフォートを買った。何でもかんでも入れられるから、こういうときは便利だ。
 それからさらに進んでいよいよ湊交差点に着いた。海だ、それ左ね、と僕は前にいるO君に声をかける。道路は内房なぎさラインこと、内房の大幹線国道、127号だ。
 信号が変わり左に曲がる。
「もう数キロだから」
「ういっす」
 道は湊川を渡る。僕は右手に視線を移す。すぐそこはもう東京湾。海の直前、河口ぎりぎりに内房線の鉄橋が架かっている。湊川橋梁。僕はこの橋とその周囲の風景が大好きだ。でもいつだってちらっと見て終わってしまう。国道127号の橋が狭くて走りづらくて、止まるも無理だし、交通量が多くてゆっくり眺めながらという走り方もできない。横目でちら見。いつだってそう。ゆっくり眺めてみたいよなって思う。
 その先わずか十数メートルの坂を上るのさえ、O君はつらそうだった。脚とひざをかばっているわけで、しんどさが伝わってくる。
 竹岡ラーメンのもう一軒の店、「鈴屋」をまず通過する。ここは売り切り終了で、14時まで開いていたところを見たことがない。一度12時50分に着いて閉まっていたことがある。これから行く梅乃屋が時間の限り営業するのと対照的だ。それからすぐ先のニコニコドライブインを確認しておく。いわゆるトラッカー向けの食堂で、あまりに梅乃屋が並んでいたときのことを考え、控えとして見ておこうと思ったのだけど、戸はぴたりと閉まり、カーテンはすべて引かれていた。
「マジかよー、押さえ全滅だよ」
 と後ろから言葉を投げる。するとO君は、
「いいっすよ。今日の目的見失うから」
 と一本勝負の意志を見せた。

 

「すごいっすねこれ、確かに。でも食えますね」
 O君は小声でそういい、ラーメンを口に運んでいる。
 驚いたのはまったく待たずに入れたことだ。9割方の席は埋まっているものの、食べ終えた人が出て行くから、次の客が来ても待たずに回転していた。最近の梅乃屋がこうなのか、それとも今日この時間だけがたまたまこうなのかはわからない。でもこんなありがたいことはない。一時間待つなら寒いからやめておこうって思っていたから。
 僕がラーメンと薬味トッピング(刻み玉ねぎ)と頼むと、じゃあそれもうひとつと彼もいった。彼がさんざん事前調査したとおりのまっ黒な醤油のお湯割りスープに僕ら庶民の見慣れた乾麺が埋まっている。チャーシューはバラ肉で厚くて大きい。脂っこいのを嫌う人にはきつい肉かもしれない。
 偶然なのか、コンビニからの10キロ程度のうちに、お腹がすいたと思えるようなこなれ、、、感があった。それだけじゃないと思うけど、前回不味くてつらかったこのラーメンが、ふつうに食べられるのだ。僕らが待つあいだ、レジで「作り方変わりました?」と聞いていた客がいた。店のおばちゃんたちは「変えてないわよ」といい、ほかのおばちゃんにも「変えてないわよねえ」と同調を求めていたけど、もし彼の前回訪問が僕の前回と同じころだとするならば、そう思ったのかもしれない。ともかく、美味い美味いとバクバク行くものでもないけれど、なぜかふつうに食べられている。前回、半分くらい食べたところで、果たして残り半分をどうしようと本気で悩んだ記憶とは全く違う。
 悔しいのはO君である。音を上げずに食べている、というか、ふつうに食べている。いや、食べられますよ、醤油のどぎついのももちろんわかりますけど、そういって食べているのだ。僕としては残念でならない。
 僕は自分で驚いたことに、すべて食べきった。さすがにスープを全部飲むなんてことはしないけど、底に沈んでいる乾麺やチャーシューの切れ端を探しては、口に運んだ。レンゲで、スープもほんの少し飲んだ。ふつうにラーメン屋のラーメンを食べきるように、竹岡ラーメンを食べきった。
 O君もだ。食べきった。

 

 電車の時間はラーメンを待つあいだに調べていた。上総湊の駅から始発が出る。それに乗れなければ一時間後。ラーメンが15分で出てきて10分で食べる、あるいは10分で出てきて15分で食べる、いずれにしてもトータル25分で済ませられれば乗れると思った。その時間を告げた。脚、まったく動かないけど大丈夫かなあ、といった。大丈夫だよ、と僕は根拠なしにいった。
 ふたりラーメンを食べ終え、さあ行こうと席を立った。

 

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 厚い雲に覆われていたのは内陸部だけだったようだ。西へ西へと来るうちに雲は消えてなくなり、やがて再び僕らは太陽を手に入れた。今も海岸線の道は晴れている。湾曲した海岸線は、赤く染まり始めた東京湾大観音から富津岬まで見通せた。対岸の三浦半島まで、建物や地形までもくっきり見えるほどだった。浦賀水道から湾内横浜、東京へ出入りする船の数をひとつずつ数えられるほどだった。
 ──そうだ、湊川橋梁。
 僕は時計を確認した。ちょっと寄り道する時間ならある。はじめて、ゆっくり止まって眺められるチャンスを得た、と確信した。寄り道がしたい、僕は前を走るO君に声をかけた。

 

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 強い風がやまずに吹き続けていたこともあって、走りながらの会話はなかなかうまく伝えられなかったし、彼にとって鉄道橋梁を眺めるだけという行為に興味や意味があるのか、それにひざも壊れてしまった彼の脚のこととかいろいろ考え、そのまま駅に向かってもらった。僕はひとりで湊川のほとりから鉄道橋梁を眺めている。日の暮れかけた海を背景に、シルエットで浮かびあがる内房線の風景でこの旅に幕を引くなんて、何とぜいたくだろうと思った。道端に座ってただ眺める。それがたった1分であってもじゅうぶんすぎる終演だ。アンコールもいらない。列車が来れば最高だなと考える。でもすぐ、いや来なくていいんじゃねと思う。完全終止より偽終止や半終止が好き、エンターテイメント小説やミュージカルストーリーのような完全結より純文学の不完全結が好き。それなら列車はむしろ来ないほうがいい。僕は区切りを自分で求め、その場を立った。本を閉じるように。

 

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 後日談的顛末である(後日ではないけれど)。

 

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 帰りの輪行をのんびりと、2時間余りかけて帰る後半になって、O君は
「やべえ、ふつうじゃねえ……。具合悪いに近い」
 といい出した。「毒が全身にまわり始めているような」
 どうしたのと僕は聞く。
胃もたれというか、それが全身にある感じ」
「だって食べたあと、帰ったら夕飯も食べるっていってたじゃん。筋肉痛出そうだしっていうから、俺がささみでも食っとけばっていったら、そうすねっていってたじゃん」
 確かに彼はそういった。そして帰ったら何を食べようかと。
「無理す。ぜんぜん無理っす。何も入らない。──やべえなあこれ」
 なんか飲んで身体薄めたら? と僕がいうと、飲むのも無理、いっさい受け付けられないっていう。
「なんだ、あんなにふつうに食べてたから、食えてるなあって残念がってたのに」
「じわじわ来てますよ。毒がまわってるみたいだ、やべえ」
「不味かったってこと?」
「そういうことっす、結果的に。あれは不味いっす」
 これでパーフェクト。僕はよしよしよしと満足がった。

 

 彼が電車を降りる。今度は鈴屋に行こう、と僕はいった。彼は行きましょうとホームに立った。