自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

一ノ瀬高橋・多摩川源流(Jul-2018)

 一ノ瀬高橋地区は、このあたりの地図を見ていて気になっていた場所だった。国道411号青梅街道から道が分岐し、ずいぶん奥まったところまで入っていく。一般的にみられる山奥の集落へは一本道で続き、行き止まりとして終わるのに、ここはなぜだろう周回路ができあがっている。おまけに、地図上に「一ノ瀬高原」の文字もある。いったい何がある場所なのか、見つけた時からずっと興味があった。
 僕はここを走るルートを引いた。

 

 

「それではこれより鮎まつりを開会いたします」
 午前10時を待って宣言がなされた。ぱらぱらぱらとまばらに、リズムなく湧く拍手は、関係者とたまたまマイクを持った女性の前を通りかかった来場者からだった。僕はベンチに腰掛けて遠巻きにそのようすを眺めていた。山梨県丹波山村、道の駅たばやま──。
 同時にオープンした農産物直売所が、むしろ人気だった。「やだ、まだ開いてないの? よその道の駅はこんな時間ならもう開けてるわよ」──閉め切られた入り口前でさっき係員に喰ってかかっていたおばさんが、初めから並んでいた人を抜かさんばかりの勢いで入っていった。それに続いてオープンを待っていた人たちも入っていった。
 僕は冷えた缶コーヒーを飲んで、そんな光景を見ていた。

 

 雨は降っていない。でも降ってもおかしくなさそうな鉛色は、それほど来場者も多くない道の駅の、建ち並ぶテントの活気をそいでいた。鮎を焼いているテントと、それ以外が何をやっているのかはよくわからなかったが、とにかくお祭りは始まったようだ。
 鮎は目の前の清流で獲れるのだろうか。
 丹波たば川。都民の水源である大河、多摩川山梨県ではこっそりこう名前が変わる。
 川は、ちょうどこの道の駅の裏手を流れている。

 

 缶コーヒーを飲み終えると僕はベンチを立った。鮎まつりは際立って進行しているようすもなかった。
 僕は一ノ瀬高梨地区に向かうルートをガーミンに表示した。

 

(本日のルート)

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GPSログ

 

 

 一ノ瀬高橋地区のルートを引くにあたって、周回路の中ほどどうしをつなぐ中間の道もあり、その選択に悩んだ。中間路の途中には犬切峠という名の峠もある。どちらを通るべきか。とはいうものの、峠に強い興味があるわけじゃなく──行けば行ったで見どころだろうけど──、中間路を取ってしまうがために一ノ瀬高橋地区の最奥地をたずねないのは片手落ちだろうと、奥までぐるっとまわりこむ周回路を走るルートにした。

 

 国道411号青梅街道は何度か来たことがあった。いつも奥多摩から柳沢峠を越えて塩山に向かうルート。なぜだろう逆ルートをたどったことがない。あえていうなら、松姫トンネルができる前の松姫峠を越えたとき、小菅村からこの国道411号に出て奥多摩駅へ向かったことがあるだけだ。深山橋から下の部分だけだから、逆ルートで走ったという気分でもない。
 そして今日も道の駅たばやまを出発して西へ向かった。進みながら初めて気づく。またこの方角を取ったのかと。ようは、あまり考えてないってことだ。

 

 丹波山村の中心地、国道411号青梅街道の沿道はいい雰囲気だった。木の格子戸を持つ家々が建ち並び、あたかも宿場町のような風情。でもこの道自体開削されたのが明治時代に入ったのちだから、江戸の旧街道であったりその宿場町であったという歴史はない。
 丹波山中心地から奥秋おくあきへ。国道沿道の町から外れ、川に沿った集落が眼下に見えた。いい雰囲気だ。
 奥秋の集落も過ぎてしまうと、いよいよ山あいへと入った。丹波川(多摩川)が道に沿ってくる。川にはなるほど、長い釣竿を構え、水のなかに入っている人が大勢いた。これがきっと鮎釣りなんだろう。

 

 一ノ瀬高橋地区へは国道411号でアプローチするほかなく、こうして坂を上っていく。10年少し前に走った記憶だと、川と山肌に沿って数知れないつづら折りで上っていった。のちにトンネルが直線的に貫かれるようになり、いくつものつづら折が廃止された。最後にここに来たのはもう5年以上いているだろう、またさらにトンネルが増えたように思えた。
 いつもこの国道を通るたびに、沿道の旧蹟おいらん淵を見つけられずにいた。だいたい、ここへ来ると長く続く坂でくたくたになって、その周辺を通過する頃には意識も行かなくなり、見つけられないのだと思っていた。今日ここに来るにあたってルートを引くとき、詳細な縮尺で見ると国道沿いではなくどうやら一ノ瀬高橋地区に少し入ったらしいことがわかった。だから見つけられなかったのか、妙に納得した。
 そしておいらん淵まで2.6キロとちいさな案内が出た。

 

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 果たして国道からの分岐入口を見つけられるだろうかと疑心暗鬼だった。これまで走った覚えからでもそんな道があったとは思えなかったからだ。今は僕もガーミンを持ち、地図を照合しながら走るから心配などしていないけど、印刷した紙の地図だけを頼りにしていた頃など見つけられなかったかもしれないなと思った。そんなに昔のことじゃない、つい最近だ。
 でも何のことはない、その入り口はあっさりと見つかった。確か昔泣きっ面を見せながら上ったZ坂だったよなあと記憶する場所、その最後のカーブだった。今は一ノ瀬高橋トンネルがあり──Z坂が直線トンネルになったのだからそれなりの勾配だ──、それを出た先のヘアピンカーブだった。わかりにくいことなど何もなかった。一ノ瀬高原入口って看板さえあった。これでわからないってことはない。かつては道を知らなかったし地区を知らなかった。知らないづくしで目に入らなかったんだろう。

 

 道は一ノ瀬林道と称することがわかった。
 そして知ったのは、この一ノ瀬林道は東京都の管理であるということだった。のちに調べてみると、一ノ瀬高橋地区は多摩川の源流地域であり、かつて水源林を管理するため一帯を山梨県から当時の東京市が買収したのだという。道もおそらく、合わせて東京市が買収したのだろう。明治時代の話だ。
 そんなわけで山梨県丹波山村にありながら東京都が管理する林道を行った。

 

 山深い林のなかを、けっこうな斜度で上っていった。景色が開ける場所が現れれば止まって、何度も休憩しながら進んだ。景色が開けるといっても目の前にさえぎる木々がないだけで、続く林の風景には変わりがなかった。ときどき、この道のゆく先や来たもとが望めた。国道411号の切れはしも望めた。見ていると車が頻繁に行き来するようすが見えた。切れはしはずいぶん下のほうで、ずいぶん小さかった。
 そういえばこの道に入ってから数えるほどしか車を見ていない。でもこの道で車がそんなに来たなら、道が細くて往生してしまうに違いない。全般的に1.5車線幅は確保されているけれど、カーブばかりだ。いまどきの大きな車どうしじゃタイミングのいい場所でなければすれ違いも難しそうだった。
 こんな道を行った先に、高原なんかあるんだろうか──。
 そう思った。

 

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 道の駅たばやまを出発してもう一時間以上坂を上り続けた。
 キャンプ場の文字が見えた。
「高原に入ったのかな?」
 と声に出してみた。誰がいるわけでもない。返事があるわけでもない。
 民家が現れた。一軒現れると二軒、三軒と続いた。
 本当に誰もいないのだ。いるのかもしれないけど、気配がない。僕の声は消しきれないシミのように、切れ悪く空気のなかのどこかへ行った。
 高原にしちゃ無粋だった。平坦でもなかった。坂道が続き、民家の一軒一軒は大きくその高さが違った。そんな場所だから広い原っぱなどなかった。僕の持つ高原のイメージは、草原だった。リゾートだった。蓼科とか軽井沢とか志賀とか、そんな場所だ。勝手な思い込みとはわかるけど、それとはまったく違っていた。
 坂は続いている。
「あっ、おいらん淵……」
 すっかり忘れていた。それがあったのかさえわからなかった。見つけようという意志もなく一ノ瀬林道を上ってきたものだから、そんなものは見つかるはずもなかった。それはおそらく林道に入ってすぐのことだったはずだ。
 まあ悔いても仕方ないし、などと考えながら坂を上っていた。自分のなかでもたいして期待していなかったことに気づいた。
 みはらしという名の民宿が見えた。
 お昼どきになるなら、ここで食べようと思っていた。民宿ながら昼食は食べられるという情報は得ていた。
 時間は悪くなかった。11時半。
 でもそれほど空腹じゃない。道の駅たばやまでセブンティーン・アイスを食べ缶コーヒーを飲んで、それでお腹が満たされたとも思えないのだけど、食欲が湧かなかった。ここでしか食べられない山菜とか、そんなものが出るかもしれないっていう期待値を累乗して加算しても、まだ食欲がなかった。
 残念だけど先に進むことにした。
 しかし仮にここで食べると決めたときに、扉を開けごめんくださいと声をかければ人が現れたのだろうか。僕は席に着き、地のものが並んだランチが供されたのだろうか。
 いやおそらく大丈夫だ。民宿兼食堂としてここに存在しているのだ。静かすぎるうえ何の動きもない風景だけで判断すべきじゃない。何しろ営業中ののぼりが出ているのだ。この地区はこういうきわめて静かな暮らしぶりなのだきっと。
 ──でも高原であり観光地であるのなら、観光客がいてもよさそうなものだけど。

 

 民宿みはらしを過ぎてそれほど行かないうちに、僕が地図で見て最果てだと思っていた場所に着いた。そこはちいさな橋がかかっていて、中川と書かれていた。
 中川は多摩川支流のこの地域を流れる一ノ瀬川、さらにその支流のひとつである。
 一ノ瀬林道でやってきた奥地の川は、岩や草のあいだから生まれる伏流水が、やがて集まって流れになる「沢」を想像していたのだけど、違った。頑丈そうな砂防ダムがあり、コンクリートで護岸されていた。そっか水源地として都から管理されているんだもんな、と思った。これくらいのことがしてあっても不思議じゃない。もっと源流を楽しみたければ、ここから歩いていく必要があるんだろうな……。
 一ノ瀬高橋地区の支流河川や沢は、まるで毛細血管のように細かく、張り巡らされるように存在している。中川だけじゃなく無数に存在し、数分走れば次の川にたどり着く。これらの流れが集まって一ノ瀬川になり、国道411号まで下れば、柳沢峠から下ってきた柳沢川と合流して丹波川になる。小河内ダムでせき止められた水は奥多摩湖を形成し、多摩川となって東京都をうるおしている。もちろん支流はたくさんあって、秋川や浅川やそんな有名な川も一緒くたに多摩川水系だ。どれだけ大きいのか計り知れない。
 でも多摩川源流として定められているのがこの一ノ瀬高橋地区から入った水干みずひエリアだそうだ。笠取山かさとりやまという秩父山系のひとつで、その南斜面のエリアだそう。数ある支流の、その毛細血管の先のような場所など山ほどあるなかで、「ここが源流」「これが本流」と決めたのはどういう経緯があるのだろう。

 

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 車やオートバイにときどき行き合うものの、彼らがどこから来てどこへ行くのかまったくわからなかった。どこかで止まっているわけじゃないからだ。キャンプ場にも民宿にも彼らはいなかった。とすると、僕と同じようにただこの道を走りたくて走っているのか? オートバイ乗りには同じ嗜好を持つ人がいることは知っているので理解できるが、乗用車が「ただ走りに」ここに来ることがあるのだろうか。
 その答えが、下りに転じて少し走った先にあった。
 少しだけ開けた平地を持ったそこは、乗用車の駐車場と化していた。
 作場平というそこは、笠取山への登山口だった。みなここへ来ていたのだ。
 水干エリアを含む、多摩川源流を楽しめる登山エリアだそうだ。

 

 一ノ瀬林道の路肩はガードレールの箇所もあったけど、大半はワイヤー三本のガードロープか、気持ち程度の駒止か、よくある歩道の段差程度の縁石だった。
 特に周回路西側に入ってから、縁石が多くなった。簡単に乗りあげそうだ。自転車ならそう乗りあげることもないかもしれないけど、力のあるオートバイや車なら乗り越えてしまいそうだった。
 そして縁石はすっかり苔むしていた。そう簡単にここまで苔は生えないだろうってくらい、苔むしていた。

 

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 埋もれて、もう誰からも見てもらえない青看が現れた。左は青梅、丹波山とあり右は甲府、塩山とあった。そしてこの青看の出現は、一ノ瀬林道の終わりを意味した。少し先で道は突き当たり、車やオートバイが行き交っていた。
 青看の前で立ち止まっていた僕は、ここと目の前すぐ先のそことで明らかな世界の違いを感じた。

 

 正直、何もない林道だった。一ノ瀬高原という名の高原も、僕の思い描く高原とはまったく違った。一ノ瀬高橋地区を国道へと導く、ただの生活林道だった。水源地管理として東京都が管轄していなければ、舗装だってされていなかったかもしれない。景色眺望はなく、唯一あった展望台も山好きでなければ興味も生まれない風景だった。変化のない道に入ってそのまま出てくることになる。淡々と走るだけだ。期待とか、持たないほうがいい。
 しかしながら、明らかにこの道を走るためにやってきている人がいた。オートバイで走っている人たちだ。僕はこの林道に入ってから、オートバイの人にも挨拶をひとりひとりした。上りが苦しくて会釈くらいしかできなかったけど。するとほぼ百パーセントに近い確率で彼らも挨拶をした。すれ違うバイクはサムズ・アップをし、抜いていくバイクが大きく手を振っていった。彼らはこの道を走るためにやってきている。そして、こいつもまたこの道を走るためだけにやってきていると気づくのか、僕に親指を上げ、手を振った。
 お互い、何が楽しくて──。僕はひとり青看の前で笑った。

 

 林道は終わった。
 国道411号への「止まれ」の停止線を横切るのに、ひと息立ち止まった。デッド・セクション。交流、直流を走る電車のように、ここで何らかのスイッチを切り替える必要があった。

 

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