自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

旅の途中

 北濃へは、結果的に思えば行けたかもしれない。
 こないだの長良川鉄道沿線自転車旅、計画だけは鉄道の終着、北濃駅まで走ってもいいようにしていた。あとはじっさいの時間と残った体力で、乗るべき上り列車との合流点をゴールにするつもりだった。
 僕はその日郡上大和駅をゴールとし、自転車をばらして袋に詰めた。駅舎内にあった喫茶店に寄ってコーヒーを飲み、列車を待った。やって来た列車は僕が計画した列車より一本前の上り列車。実は数日前、路線内で起きた脱線事故により関と美濃太田のあいだが不通となり、バス代行を行っていたのだ。もともとの計画では長良川鉄道の鉄道旅を楽しみつつ美濃太田まで行き、高山本線から東海道本線に乗り継いで名古屋、そこから新幹線に乗ることにしていた。しかしながら代行バスの時刻を見る限り乗り継ぎが間に合わず、計画していた列車はあきらめるほかなかった。そこで僕が選んだカードは一本前の列車だった。さすがに1時間半繰り上がった時刻で、終着の北濃まで走ることはできなかった。郡上大和から北濃まで、沿線自転車旅と鉄道旅を残し、旅を終えた。
 ──が、僕にとりたてての不満は残っていない。

 

 今年1月、妻と一緒に思いつきで函館を旅した。週末前日に5千円台の千歳便を偶然見つけ、妻に伝えると即座に乗り気になった。急展開のなか、函館市内のホテルも確保できた。着替えと身の回りのものだけ小さなバッグに詰めて旅に出た。あいにく飛行機からの乗り継ぎができず函館本線ニセコまわりの汽車旅はかなわなかったけど、砂原支線(函館本線の大沼-森間の海まわり支線)に乗る鈍行列車旅も満喫できた。函館に着いてからは市内を飽きるほど歩き、見て、食べて、疲れ果てるほど楽しんだ。
 それでも小説やエッセイに登場するカフェやホテル、阿佐利本店のコロッケ(こちらは知っていたのだけど入るお腹がなかった)など、取りこぼしたところは多い。
 もちろん、僕らには不満は残っていない。

 

 

 考えてみれば、僕の旅はいつだって中途半端なのだ。どこか取りこぼしがある。
 もちろん観光ガイドのラインナップを順にめぐりスナップを撮るような──僕は「旗立て」と呼んでいる──旅はしないので、旅全体を一般的な人が見れば取りこぼしばかりなのだろうけど、それを抜きにしても、つまり僕の視点からでもそれはあるってことだ。

 

 あとで気づくこともある。それと、わかっているものもある。
「今回は無理だな、行けないな」
 ──と。

 

 

 でもいいのだ、中途半端で。
 なぜなら、また行けばいいから。

 

 今回走れなかった郡上大和から北濃までの長良川鉄道沿線だって、あるいは鉄道沿線旅に固執した結果素通りになってしまった関や美濃や郡上八幡の町だって、また行けばいいのだ。函館からの帰りの新幹線で読んだ本(出発前の準備時間がなく読み通す間がなかった)でカフェやホテルを見つけ、妻にそれを見せると、「また行けばいいじゃない、なんなら来週だって」といった。意外と似通った考えを持つところがあるのかもしれない。でも、そういうことだ。そのとおり、また行けばいい。

 

 むしろ、また行くのがいい。
 最近は、そんなふうに思う。

 

 二度目の楽しさ。
 それは、取りこぼしを補うだけじゃない。
 新しい気づきがある。あるいは季節を変え、時間を経て、見え方が変わる。年齢(イコールいろいろな人生経験)で磨かれたレンズは映り方が変わる。それも、楽しい。それが、楽しい。
 加えて、人間にはいくつかの琴線があって、そのひとつに「懐かしさ」があることに気づいた。二度目の旅って懐かしさという静かで深いところにある感情を揺するのだ。来たかった場所に来て、見たかったものを見て、食べたかったものを食べて得られる驚きや感動はわかりやすくて直接的だ。逆に懐かしさって気づきにくい。底辺にじわっと沁みる感情は、でも間違いなく旅の印象に彩りを与えている。懐かしさ──それは、深い。

 

 だから、また行く。そう思って、いつも旅は中途半端なままに終える。
 いつ行くって、わからないけど、また行くって思って、旅から帰るんだ。
 いつだって旅の途中。それもいいかなって思って。

 

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