お地蔵さんの全容を見にいく(Aug-2019)
おそらく僕が蔵王の地蔵を見たのは、スキーがまだブームと呼ばれていたころだったと思う。冬、お地蔵さんのいる山頂まで行くにはロープウェイに乗らなきゃならず──それ以外に山頂まで行くリフトは今も一本もない──、輸送力の低いこのロープウェイではブームのスキーヤーを運び切れずつねに大混雑、一緒に行った仲間の誰かが整理券を確保してようやくその姿を見に行く機会を得た。
蔵王にスキーで出かけたことは何度かあるのだけど、地蔵まで行ったのはそのときと、せいぜいもう一度あるかないか。何しろ整理券を取るのが面倒で、でもロープウェイに乗らないと行くことができない場所となれば、別に行かなくてもねという流れになるのが自然だった。地蔵を拝むことじゃなく、スキーをすることが目的だったから。
冬の地蔵は、そのときの積雪量次第で変わるのだけど、たいてい胸より上しか出ていることがない。雪の多いときなら顔だけとか。スキーでしかここへ行ったことのない僕は、当然ながらこの地蔵の全容を見たことがない。前日、宮城県の白石から蔵王山を越え、県境を越えてきた僕は、蔵王温泉(山形蔵王)のスキー場と、このお地蔵さんを見に行こうと考えていた。懐かし再訪、ノスタルジー。
(本日のマップ)
◆
蔵王自転車旅、#day2。
僕にとってきわめて過酷だった前日の蔵王エコーラインの登坂の結果、夜9時に布団に入り朝6時過ぎまで寝ていたにも関わらず、半分くらいしか回復しなかった。自転車シューズでの御釜までの山登りもきつかった。あんなところへ行くのならフラペとトレッキングシューズを用意すべきだったと思っても今さらどうにもできないし、そもそもリフトで行くつもりだったのだ。リフトに間に合わなかったのが敗因なのだ。
自転車旅でペンションに泊まるのは初めてだった。きっと場違いだよなぁと思っていたらやっぱり場違いだった。台本があるんじゃないかってくらいドラマみたいな会話ばかりする4人家族と、いたってありがちなお父さんがほとんど会話に参加しない娘ふたりの4人家族と、ひとり客の僕。仕方がないんだ、
(一同、うなずく。)
そうなのだ。
おおよそのコース高低は把握していた。今いる蔵王坊平高原は標高が千メートル、ここから蔵王エコーラインを一度下り、猿倉というところで750メートル、蔵王温泉もまた標高千メートルあるので、一度下ってまた上らなくちゃならないのだ。ふだんならそれほど気にする標高差じゃないんだけど、昨日の登坂ですっかり意気消沈していた。上れないんじゃないかって不安になっていた。原因もわかっていた。重いサドルバッグ。これに暑さも加わった。これらは変わることがない。捨てられるような荷物を持ってきたわけじゃないし、日々の行程上で減って行くものなんてポチ袋大のジプロックに入れた洗濯用粉洗剤だけだ。軽量化には値しない。そしてお天気も上々である。
地蔵まで向かうルートを考え、林道を経路に加えてある。この林道を上ると1300メートル超。さらなる上りである。そこまで上って、山頂の手前まで行けるリフトを利用しようって思ってた。
しかし林道を上る1300メートルどころか、蔵王温泉の千メートルまでですら怪しく思えてきた。前日の疲労の半分の残りが、そういう気分にさせた。
「昨日の反動がつらいんで、あるいはこのまま
そう僕は苦笑い交じりに答えた。
(一同、うなずく。)
宿を出た青空の下は、今日も一日暑くなりそうな予感がした。とはいえここ標高千メートルにいるぶんには暑さを感じない。ずっとこのままだといいのにって思う。
自転車にサドルバッグを付ける。なんだか昨日よりも大きく重くなった気がする。いつだってそうだ。きっと荷造りが下手なんだ。昨日は2回巻き上げていたサドルバッグのロールアップが、なぜか1回しかできない。そして重さも。でも重さってどうなんだろう、重くなる理由はないはず……だけど。
ペンション・ヴィレッジを出て昨日一日走ってきた蔵王エコーラインに戻った。まだ朝の8時台、車通りもほとんどない。まずは猿倉に向けてエコーラインを下った。反対側を自転車が上ってくる。この時間でもうここまで来ているってことは何時に出てきたんだろう。挨拶をする。挨拶が返る。さほど疲れていないようすの声だった。登坂力が羨ましかった。
猿倉からは蔵王ラインと呼ばれる県道53号に入る。ここから下ってきたぶんを上り返さなきゃならない。疲れて体力尽きてしまってはいけないからとにかくゆっくり、昨日以上に気を付けた。
250メートルばかり上り返して林道の分岐に着いた。林道には蔵王林道って立派な名前がついていた。
ここでやめる手だってあった。地蔵にこだわらなければ上る必要だってないのだ。
でも、進む。行けそうな気がした。一本道だからつらけりゃ折り返せばいいって思えるのも気が楽だった。
蔵王林道はスキー場のなかを縫って行く静かな林道だった。森の中を進んでいるかと思うと突然平原があらわれる。これがゲレンデだった。スキー場の案内標識がそのまま立っている。黒姫スーパーGとかあらわれる。滑ったことがある、懐かしい。でも懐かしいのは響きだけで、その場の風景からじゃ何も思い浮かばなかった。雪のあるなしで景色はまったく違う。だいたい冬のあいだ、こんなところに舗装道路が横切っているなんて想像もしなかった。森のなかと平原とを繰り返し、さらに上って行くと今度は樹氷原コースの標識があらわれた。これもまた僕をノスタルジックにさせた。
10時をまわったころ、ようやく目的地と考えていたリフト乗り場に到着した。日が上りじりじりと焦がしてくるようだけど、風はさらっとしていた。暑いけど、昨日の苦しむような暑さとは違う気がした。
しかしながら目的のリフトは動いていなかった。搬器さえかかっていなかった。リフト小屋は閉ざされ、もちろん周囲は人の気配すらなかった。つまり、営業していないってことだ。
しくじった。ゲレンデを眺め途方に暮れるほかなかった。やけに静かで、鳥だけが元気よく鳴いていた。
そこへ女性がひとりあらわれた。トレッキングスタイルの美しい人だった。痩せた肢体は鍛え上げられたアスリートボディで、あらゆるパーツがばねのように動きそうだった。まったくひと気のない場所だったから、僕は少しばかりびっくりした。
こんにちは、と僕はいった。こんにちは、と彼女もいった。
「自転車で? 上って来たんですか?」
と彼女は驚く。僕は笑った。「歩いて上ってくるほうが驚きです。しかもおひとりで」
そういうと彼女も笑った。
「ところで──」
僕はワイヤーだけが張られたリフトの伸びる先を見ていった。「ここから地蔵へは行けるんですか?」
「行けますよ」
彼女はそう笑っていった。
「でも、リフトやってないんですね。そうするとロープウェイですか」
「ロープウェイはあの向こうのやつですね」
彼女は指で示してくれる。高い位置まで大きな支柱が立ち、ワイヤーがロングスパンで張られている。そのワイヤーは一本向こうの峰に消えていた。
「そうか……乗るには山が違いましたね」
僕がそう苦笑いすると、
「そうですね、あのとんがった三角の屋根のところがそうなので」
「そうでしたか。──さすがにもう一度上り返せません」
「ここから歩いても行けますよ」
僕はゲレンデを見上げて、しばらく考える。「きついですよね?」
「私でも上れる道です」
そういって彼女も斜面を見る。「私もこれから、地蔵を通って御釜まで行こうと思ってるんです」
御釜……昨日僕が見に行った場所だ。刈田リフトを使おうと思っていて、間に合わず徒歩で上る羽目になったところ。自転車シューズで上った昨日の山の斜面を思い出した。きつかった。ここはそれに比べてどうなんだろう。
「靴が、自転車用の靴なんですよ。底が硬くてしならないんです。こんなんでも大丈夫なんでしょうか」
「靴の話をすると、私も怒られちゃうんです。ただのスニーカーなんで」
そういって彼女が笑うんで、僕もつられて笑った。
「よかったら一緒に行きません? 地蔵まで」
と彼女がいう。
「上れますか僕に。実は昨日、刈田峠から御釜まで上って大変だったんです。靴がこんなんで、斜面だと足首に角度ができちゃってきついんです。たとえば登山道みたいに丸太を組み上げて階段状にしてあったりします?」
「ああ、しますします。そうなってるところあります」
「ちなみにどのくらいかかりますか?」
「私の足で地蔵まで40分ですね」
美女の後ろをついて上って行く。聞けば彼女はトレーニングの一環でこうして山に来るらしい。ランが本業で、マラソンの大会に出ているんだそう。フルはむかし走ったけど、最近はハーフを走ってるといった。確かに、彼女がスニーカーと呼んだその靴は、高そうなランシューズだった。
しかしきつい。昨日の御釜よりも斜度があり難易度も高いように思う。雪解けや雨が降ったりすると沢状に水が流れるのか、土にえぐれた箇所があったり、石がごろごろしている。それとは別に草に覆われているところもある。僕は彼女のラインにはとらわれず、自分が上りやすそうなラインを選んだ。
自転車は、リフト乗り場の柱にくくりつけてきた。水を入れたボトルを背中のポケットに入れてきた。それから思い出して、ガーミンを外して手に持ってきた。御釜からの帰り、危うく道を見失いかけた昨日の教訓だった。
上っているのはゲレンデそのものである。なんというコースだろう。蔵王スキー場はほとんど滑ったはずだから、かつて滑ったに違いない。スキー場の斜面を足で上るってこんなにしんどいのか。彼女のペースについて行くのがやっとだし、このままいくとついていけなくなるかもしれない。
「少し、休みましょう」
彼女はそういい、そこにはリフト降り場があった。冬のシーズン中ならそこは乗ってきた搬器から立ち上がり、滑り下りる雪のスロープだろう。夏の今は板張りで、まるで僕らのためのウッドデッキのようだ。
「助かりました。もういっぱいいっぱいだったんで」
「私もですよ~、休まないと上れない」
並んでウッドデッキに腰を下ろした。僕は背中のボトルの水をのどに流し込み、彼女はデイパックから取り出したペットボトルを飲んだ。このリフト降り場は、僕らが上り始めたところのリフトだ。僕が今日、乗れると期待して自転車で上ってきたリフトだった。その一本分を上ってきた。とんでもなくきついし、丸太の階段状登山道なんてなかった。ただただ斜面を上るだけだった。
「ねえ、これ、騙しましたよね?」
と、僕は彼女にいった。
「う~ん、騙したかもしれない」
彼女は笑った。
ウッドデッキを涼しい風が抜けていく。斜面から下を覗き込むと、一大パノラマが広がっていた。そのまっすぐ下が蔵王温泉街、さらに先は山形、左手が上山、そうやって見える風景を教えてもらい、ひとつひとつ確認した。
遠くにふたりほど人影が見える程度で、こんなところを上る人は誰もいない。僕らふたりしかいない。昨日御釜への、知らずに上ってしまった道同様、こんなところ上る人がいるんだろうか。スキーで滑る斜面だ。自転車のシューズを履いて歩いて上る斜度じゃない。自転車の服で、手ぶらで上ってる場合じゃない。
「3分の2くらい来てます?」
「ん~……半分、かな」
「実は、ここからがいちばんきついんです……」
ウッドデッキを立ち上がって、まず最初に彼女がそういった。まぎれもなく。斜度がまた一段と上がったのがわかる。
「あれ、通れます」
と彼女が指差した。丸太で作られた階段状のルート。僕はそこへトランスファーする。
こういう造りがあるってことはいちおう、ハイキングルートとして整備されているんだろう。彼女が最初にいったのも嘘じゃなかった。全部が全部にあったわけじゃないけど(全体からすればほんのほんの一部)。このきつめの斜度を会話もできずに上る。ありがたかった階段状もわりと早いうちになくなり、また斜面を一歩一歩上る。彼女は砂利の転がった土斜面を上って行くが、僕は硬い底の靴のせいで滑ってしまうから、あえて草地を選んだ。
もうすぐです、と彼女はいった。そこには『樹氷原コース 97』と書かれた看板が立っていた。「100まで行ったらゴールです」
それから斜度はずいぶん緩くなり、並んでまた会話ができるほどになった。
ここは通称ザンゲ坂。その名前で、スキーで地蔵を見に来たとき、帰りに下るスロープだったのを思い出した。樹氷と樹氷のあいだを、しかしながら緩斜面なものだから、ストックで漕いだりスケーティングする必要があった記憶がある。スキーで使う斜面とこうして足で上って行くときと、斜度の感覚がまったく違うのに驚いた。
「100です」
いよいよ僕もそれを目にした。そしてロープウェイの地蔵山頂駅があった。
「いやぁでかい」
僕はいった。
「そうですよね、冬は半分以上埋まっちゃいますもんね」
「でも賽銭箱、これだけは冬も雪に埋めず持ち上げるんですね。お賽銭だけはきっちりと」
今は地べたに置かれている。冬に来たとき、賽銭箱は顔のすぐ前に置かれていた。それを思い出して僕は笑った。
「そうですね~確かに」
彼女も笑った。
なんとか、地蔵まで来た。林道で、リフトが動いていないのを見たとき、もう半分はここに来るのをあきらめた。でもスキー場のゲレンデを上り、ここまでやってきた。
僕は彼女に礼をいった。彼女はこれからさらに目の前の坂を上って行く。地蔵岳から熊野岳。連続するその頂点を越えて行けば、御釜が見えるはず。まだあるから大変ですね、そういうと、ここからは木道なんで楽です、といった。
「どうぞお気を付けて」
僕は彼女を見送った。
上った道を下った。ガーミンを手に持ち、地図を拡大して、上ってきたログを外さないように歩いた。これがあってよかった。人の後ろについて歩いていると、自分ひとりで歩くよりもはるかに道を覚えていないってことを知った。丸太の階段を下り、リフト降り場のウッドデッキが見えてきた。ようやく、ここでひと組のカップルとすれ違った。こんにちは、という。こんにちは、と返す。ふたりにはどう映っただろう。この場にとうていそぐわない自転車ウェア、ザックも背負わない手ぶら、ストックさえ持っていない。違和感ありすぎだ。
45分かけて上った道を20分ほどで下ってきた。自転車はリフト乗り場の柱にくくりつけられたままになっていた。自転車の鍵を解き、ボトルをボトルケージに戻した。ガーミンをハンドルバーに付けた。大きなゲレンデマップがあったので、今歩いたルートを見てみた。前半がパラダイス迂回コース、後半がザンゲ坂だったらしい。行ってよかった、そう思えた。
蔵王林道を来た通りに下り、県道に戻って温泉街を散策してみた。急に車も増え、人も多く歩いていて華やかだった。温泉街らしいワクワクする感覚があった。そのまま奥に割り入って、
温泉街では何人かの自転車とすれ違った。ここに上ってくるのは山形や上山の自転車乗りの定番コースだったりするんだろうか。標高千メートル、驚き。
それから僕は山を下った。上山へ下りた。県道14号を下った。長い長いダウンヒルになった。道は眺望よく、上山のまちへ向かっていることがリアルに感じられた。カーブひとつずつ、まちに近づいて行った。上山の風景にダイヴしていくようだった。ダイヴは同時に、気温の大きな変化を体感させた。標高を百メートル下るごとに暑くなり、空気は体にまとわりつくようになった。延々と続く下り坂を経て、道はかみのやま温泉駅に出た。強烈な暑さは、やかましいほどの蝉の声がいちばん似合っていた。
途中で米沢に今夜の宿を押さえていた。山形市内でもよかったのだけど、翌日そのまま帰ることだって楽な米沢の方がいいかなと思った。上山も考えたけど、温泉旅館街にビジネスホテルなどなかった。お盆休み週のこの時期に、今夜あいてますか? などと飛びこめるようすじゃなかった。
上山。13時を過ぎたばかり。
まちに下りたら米沢まで輪行もありだなと考えてた。ただ時間も早いし、途中で昼を食べながら自転車で向かうのも悪くない。ここからは国道13号。JR奥羽本線沿いに行くから、暑さにうんざりしたらそこでやめて輪行すればいい。僕は進路を南に取り、上山盆地から米沢盆地を目指した。
◆
ホテルで、天気予報を見ていた。僕はその地方の天気予報が大好きだ。そこでしか聞けない地方独特の地域名称が好きだ。天気予報で聞く、目にできる。山形県の天気予報は最上、庄内、村山、
至福、至福──。
夕飯は、どこかで何かを食べようかと駅前に出てみた。でもピンと来るものがなくて、逆に惹かれた駅弁の『牛肉どまん中』を買ってきた。ホテルで、テレビを見ながらこれを食べている。どこまでも自由な時間。地元テレビ局が、地元の花火大会を中継していた。山形市内の花火大会。
いい。