自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

群馬・沢渡温泉

 群馬には、僕の興味を引く温泉がたくさんある。草津伊香保、水上──そんな有名温泉地もいいけど、それらとは一線を画す、というより、もうベクトルを別にする温泉たち。四万しま、法師、尻焼……。
 四万温泉に出かけたときのこと。お湯に感動し、体に残った温かさとともに長いことそれに浸っていた。四万温泉は分断国道353号の行き止まりに位置するので、単純に行った道を帰ってくるのみ。その国道から途中分岐する県道がある。暮坂峠を越えて六合くにへ至る55号、中之条草津線だ。四万温泉からの帰り、国道353号から分岐する県道55号の青看標識に「沢渡さわたり温泉」の文字を見た。
 次はここだなと、それからずっと心に刻んでいた。

 

 

 

  寒の戻り、なかでも花冷えっていうのは珍しいものじゃなくて、今年の暖冬ですっかり季節感を失った早咲き桜が咲くなかでも雪の予報が出た。東京でさえ満開のソメイヨシノに雪が積もることは何年かに一度はあることだから目新しさもないのだけど、今年はしっかり雪を見た記憶がない。だから雪を見たくなった。
 雪が降るのは北関東の山沿いだった。もちろん長野や新潟も予報は出たけど、群馬の山でも雪が降るなら近くていい。
 ──そうだ、沢渡温泉へ行こう。

 

 高速道路が好きじゃない僕は、国道122号や国道17号、ほかに県道など駆使しながら中之条へやってきた。中之条からは四万へ向かう国道353号へ入った。
 家を出てからずっと雨が降っていた。強くなったり弱まったりすることはあってもやむことはなかった。途中渋川で昼食を取って車に戻ると、雨はみぞれ交じりになっていた。それが国道353号では白さをともなってきた。いよいよ雪だ。

 

 国道353号は、群馬県の東毛地区、桐生市を起点に新潟県日本海岸、柏崎市に至る長い長い国道で、全線走破してみたくなる国道のひとつだ。そのルートのダイナミックさが、いつか自転車に乗って柏崎まで走り抜いてみたいって思わせる。ただその、群馬県新潟県の県境部分が分断されている。四万温泉の先、奥四万湖で道は途切れ、相対する新潟県側は、かの苗場スキー場の前から国道17号と分かれ、今はなき三国スキー場まで南下して道が途切れている。町道や林道などの代替路もない。唯一、上信越自然歩道という登山道が整備されているけれど、上級山岳ルートで僕にはとうてい手出しのできない道だ。

 

 そんなことに思いを巡らせていると、県道55号の分岐が現れた。青看には「暮坂峠、草津、沢渡」とある。その信号のない丁字路を左に折れる。
 暮坂峠も自転車で走ってみたい場所のひとつだ。以前、野反湖ピストンをしたあと暮坂峠に向かうルートを計画したことがあった。夏の暑い季節だった。その行程は野反湖から戻った六合で天気が急変、ひどいゲリラ豪雨に遭い、びしょ濡れになったうえしばらく身動きが取れなくなった。屋根のある自販機小屋で雨宿りとなって、結果以降の行程を断念した。だから自転車も含め、この県道55号に入ることが僕にとって初めてだった。
 中央線が現れたり消えたりするものの、道幅は確保されていて走りやすい。交通量は多くないのか、あまりすれ違う車もない。
 落ちてくる雪はどんどん重みを増してきた。
 水気を多く含んだ湿った雪のようで、フロントガラスに当たるとほどなくして水と化してしまう。数秒後、それをワイパーが拭い去る。
 ──これはさすがに積もる雪じゃないな。
 沢渡温泉は現県道から離れた旧道沿いに集落を構えている。「→これより温泉街」の標識に従って右折した。

 

 集落がこじんまりと沿道に集まって軒を連ねている。なんて風情あるたたずまいなんだろう。路地のようなこの温泉街を歩いてまわってみたくなった。が、雨と変わらないくらい濡れてしまいそうな雪がざんざんと降り、それはあきらめた。
 共同浴場は、その温泉街のほぼ中心の場所にあった。
 車を止め──止められる場所は三台分しかない。いちばん奥だけが空いていたので、狭い路地から狭い駐車場へバックでゆっくり入り込んで何度か切り返して止めた──、受付でおじさんに300円を払った。そうしているだけで肩を濡らしてしまう、重くて水っぽい雪だった。
「初めて?」
 とおじさんがいう。
「はい、初めてです」
「体にもいいし、肌にもいいし、それから飲めっから。飲んでって」
「わかりました」
「あと熱かったら自分で水入れて、適当に自分の周りを調整して」
 僕はありがとうございますといい、中に入った。

 

 

 沢渡温泉共同浴場は特に洗い場はない。湯舟がふたつあって、そこにじゃんじゃんとお湯が注がれている。入口の戸を引くとすぐに脱衣場。棚があってそこに衣服を放り込んでおく。籠もない。脱衣場からガラス戸越しにそのふたつの湯舟の、たいして広くない浴場が見える。先客が三人いた。
 そんな風呂なので、浴槽から汲み湯をし、しっかり体を流す。初め足からゆっくりと、するとびりっとしたしびれるほどのお湯を感じた。これ、泉質じゃなく熱さ、、だ。
 手前の浴槽にひとり、奥の浴槽にふたりが浸かっている。奥の浴槽でひとりが上がったので、僕はそちらに入ることにした。
 ──熱い。
 熱かった。上がったおじさんは椅子を取って座り、伸びたカエルのようにじっとしている。そして手前の浴槽に入っているおじさんは、「ぬおぉぉ」、「あつっ……」、「うううぅ……」、「ふぅぅ」と繰り返しひとり言を発している。
 奥の浴槽で僕と一緒に浸かっていた男性が無言で上がり、無言で椅子を手にとって、隅で休み始めた。手前の浴槽のひとり言おじさんも上がって、地べたで伸びた。
 僕は浴槽で手足を伸ばした。熱さが刺さるように体に入り込んでくる。
 長くは耐えられず、僕も並べてあった椅子をひとつ取り、空いた場所に座った。
 空いた湯舟に先に出て伸びていたおじさんが再び浸かり、1分もしないうちに上がって、体を拭い出て行った。ひとり言おじさんも手前の湯舟にもう一度浸かり、またひとり言を何度も発し、そして出て行った。男性が奥の浴槽に再び浸かったので、僕は手前のほうに入ってみた。
 ──熱っ、さらに熱い……。
 これはひとり言おじさんがひとり言を絶え間なく発するのも理解できた。耐えがたい熱さに悶絶した僕は結局浸かりきることができず、脚だけ入ったきり、腰さえ入ることができずにすぐに上がった。刺し込むようなしびれに耐えられず、さっき座っていた椅子に戻った。
 椅子に座って僕も伸びていると、このお湯、めちゃいいなって感じた。長く入っていられないけど、上がって空気に触れているとそれを実感した。すぅっと染み入ってくるようなお湯の感覚、火照った体を空気にさらしているだけでいい。
 男性が湯舟から出たので、僕も再び入った。奥のほうの浴槽。熱いけれどこちらなら浸かっていられる。
「ああ、いい。このお湯、やっぱりいい」

 

 熱さに耐えることに慣れてくると、耐えながら長く入ってしまう。でもそうするといざ上がったときにのぼせて倒れかねないので──僕は調子に乗ってのぼせ、ブラックアウトしたことが何度かある要注意な人間──、ほどほどに。でもこのお湯の良さがたまらなくて、何度か上がって入ってを繰り返した。

 

 脱衣場の戸を引くと外。雪は中に入ってきそうな勢いで降り続いていた。でも道路にいっさい積もっていない。このまま雨と同じように道路を濡らして終わりそうだ。この冬、雪景色たる雪景色は、見ることがなかったな。

 

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  県道55号の道の途中、「たんげ温泉 1km」と書かれた看板を見た。
 また、知らぬ温泉の名を知った。