自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

発見ともの忘れ

 地図を見ていてぞくぞくするような瞬間っていうのが、思いもかけない場所と場所とが道でつながっていること、それを発見したとき。
 それがゆえに自転車に乗っているっていうのは過言じゃなくて、自分のインタレストのなかでけっこうな高い比率を占めると思う。
 いや、歩けばもっとすごいこと。歩く人、そしてきわみは藪こぎだとなれば、いかようにも地点と地点を結ぶことだってできる(ちょっと極端かな、歩く系はやったことがないもので)。でももはや発見ではなく、そうなると開拓だ。

 

 僕が響くのは道路。道でつながっていることだ。
 結局道が好きで、その道の意味が好きなのだ。
 この道はなぜこの地点とこの地点を結んだのか、どうして敷設されたのか、どうしてこのルートを選んだのか。
「なら、じっさいに行ってみようじゃないか、カメさん」
 と22時25分くらいになると十津川警部がいうわけだが(ここでの科白せりふ三橋達也がいうのが適である、小説で読んでいるときのイメージ十津川省三とはかなり逆だけど)、警部がコートを取るように僕は輪行袋を取るのである。

 

 これだけ目を配らせた関東地方の地図でさえ、やっぱり見なおすと「マジかよこの道っ!」と見つけてしまうことがあって、マシンのように一定間隔でつまみながら口に運んでいたマシュマロをのどにんぐっ、、、と詰まらせたりするのだ。
 さすがに関東ともなるとこうやって見つける道はまれで、詰まったマシュマロをコーヒーで強引に流し込みながら、完ぺきに準備したはずの期末試験に書かれていることすら理解できないような問いを出されたようなものだと苦笑いするのだけど、確かにいまだにある。こういうのは、ただただ勉強のときに丸ごと取りこぼしただけ。地図と道路はそこに着目していなかっただけ。
 それが全国地図になればもう知らない道のほうが多いわけで、おまけに土地の名前だってわからない。こんなところとこんなところがつながっているのかっていう以前に、この地の南にこんな土地があるのか、などとそこから始まるわけである。
 だから理解や認識の薄い地域──おおむねツーリングマップル関東の範囲外と考えて間違いない──を走ると、目的とした道を走りながらも青看標識に目が行って仕方がなくなったりするのだ。もう何年も前になるけど、愛知県の岡崎から伊那街道(三州街道)を二日かけて走ったときはひどかった。左右に分かれていく県道の行く先に思いがけない地名が出てくる。何度も何度も。知らなきゃ「ふうん」で済むのだろうけど、中途半端に知っている地名が出てくると「何ここからあそこにつながってるわけ?」となって、今走っている道路や景色どころじゃなくなっちゃうことだってあった。走りながら、声に出して叫んでたし……。地理が頭に入っていれば、ああこうつながってるのねとなるのだろうけど、頭のなかに地名だけが浮遊して存在しているから、現地点と地名がここで初めて糸で結ばれるのだ。その突然の快感たるやもうアドレナリンが足りませんとなっていた。旅本来の主旨とまた別の発見で頭の記憶領域を変に使った旅だった。

 

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 関東はおおむね、国道県道レベルはおぼろげながら網羅してしまったから最近目につくのは林道、それでここのところ林道に出向くことが増えてしまったのかもしれない。
 でも林道は、国道県道のような道路としての強い意志や理念が感じられない。ここでいう意志とは、交通インフラとしてのコンセプトと責任感としてもいい。そりゃそうだ。林道はもともと林間管理を目的に敷かれているものが大半で、国道県道のような交通のための道ではないのだから。ひとりでスティルネスを楽しむ──本当にひとりなのだという豊かさ──はあるにせよ、僕が本来求めていた道路の機能美を堪能するのにはちょっと違うんだなあと、今年を振り返り始めて何となく気づいた。

 

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 まあいい。
 変わらず僕は国道も県道も市道もそして林道も含めて探し続けるのだろう。発見し、それが好奇心となり活力を生み、走るのだ。どうせそれは変わりっこない。
 だから僕は発見のための探究をするんだろう。いつまでたっても地図という読書、、を終えることがない。全国道路地図なんて規模になればもう果てしない。そこに書かれた地名と道路の数は限りがない。いや当然有限なのだけど、これを走って網羅しようと想像したら一瞬にして無限と化してしまう。

 

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 この前、驚くほどの発見があった。
 それを、あろうことか忘れてしまった。記憶をたぐっても思い出せないのだ。
 確か、林道だったと思う。関東地方だったし──。
 楽しみにしていた林道を走るため、ルートを引いていたときだったように思う。そのなかで、たまたま別の場所と別の場所が道の線でつながっていることを見つけたのだ。サイクリングのためのルートを引き終えると同時に、僕は見つけたほうの道にわくわくし、興奮し、じゃあいつならいけるかなぁとまだ絵にもならないような算段を始めた。引いたルートは引いたルートで保存し、ガーミンに入れた。
 このときの道を、思い出せないのだ。

 

 寄る年波なのか。
 悔しいと思う。自分に対する不安も案ずる。老いが記憶という機能を失わせてしまうのだろうか。徐々に、むしばむように、それは、静かに──。
 もちろんちょっとしたもの忘れかもしれない。そんなのは子供のころからあった。今さっき自分の部屋で考えていたことを、食卓に来たら忘れてしまう。でもそういうのは一度自分の部屋に戻れば不思議とすぐに思い出した。むしろ僕はそういう小さなもの忘れは多かったかもしれない。
 でもそれとは違うような気がする。また同じ場所の地図を見れば思い出すかもしれない。でもその思い出し方がきっと違うんだ。子供のころからのもの忘れだったら、ピンとよみがえるのだ。音を立てるように、そうそうそうなどといいながら。でも違う気がする。そこに地図を見て、きっとまた発見するのだ。同じ道を。そしてきっとこう思うのだ。「ああ、これ前に発見して、頭に入れておこうと思ってて、忘れてしまった道だ」と。そんな、気がする。

 そしてなにより、思い出せるだろうかその道を。

 

 見つけて、興味のわいた道はメモに書き留めておかないとだめだろうか。もうそういうところまで来たのかな。やれやれ。