自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

草木ダムとわたらせ渓谷鉄道(May-2018)

 しんどくなるほどの熱が出たのはいつぶりだろう。数年前にり患したインフルエンザ以来かもしれない。たぶん微熱はしょっちゅう出している。僕はどうやら熱が出ていても気にしないか、あるいは気づかないでいるから、微熱のときはふだん通りにすごしているのだ。しかしここまでの熱となるときつい。
 もうサイクリングもあきらめて飛び込んだ駅は雰囲気あるいい駅だった。木造でおそらく建てられたときのままのものなのだろう。国鉄か、それ以前の民間鉄道の時代から。そこで時刻表を見た。次の列車は1時間10分待ち。──そんなに待つのか。でもおよそ2時間近く空く谷間の時間だったから、半分。ましなほうかな。
 古い駅舎の木製ベンチに腰をおろして、列車が来るまでの時間を過ごした。することもなく、できることもなく。乗車券を買い、手回り品きっぷを買った。熱で腰やひざが痛かった。

 

 

 少なくとも前夜に前兆などなかった。仕事帰りのスーパーでいつものように朝食と缶コーヒーと、補給用にもなかと羊かんを買い、帰ると自転車に空気を入れ注油をし、バッグを取りつけライトを取りつけガーミンを取りつけた。ハープティを沸かし、冷ます。翌朝忘れないようにボトルを横に置いておく。輪行袋を用意してサドルバッグにしまった。
 早めに床につくと、夜中トイレに起きた。お腹を下していた。びっくりするほどひどい下痢だった。でもそれだけだった。なぜそんなことが起きているかもわからなかった。だって腸も胃も、痛くもないし違和感もなかったのだから。
 それから何度かトイレに起きる。同じ状況で。

 5/27土曜日、朝。駅で電車を待つ時間、トイレに寄った。このあとの長い長い輪行のあいだ、乗り換えでの連絡時間もないからトイレに寄ることはできない。東武伊勢崎線とその支線の系統には車内のトイレもない。途中で寄らなくちゃならないような状況ならそもそも今日のサイクリングはやめよう、中止して帰ろう、そう思った。──と思いながらも普通列車ばかりを乗り継いで、そういう状況にもならず、とうとう群馬県赤城駅にたどり着いた。
 林道を、走ろうと思っていた。
 三つほど計画を温めていた。
 ①柱戸林道→三境林道→長石林道
 ②前日光基幹林道8路線全線(とはいえ行けるところまで行ってやめるかもしれない)
 ③小中西山林道→根利牧場
 結局今日選んだのは①だった。②はルートを引き、ガーミンにも入れたのだけど、最後の最後食指が動かなかった。③はここのところ興味急上昇ながら、まだ情報収集不足で、これぞという入りルート出ルートや組み合わせルートを決められずにいる。後悔しそうだからやめた。でもざっとルートを引いてガーミンにだけ入れてある。
 三境林道は5、6年前に走ったことがあった。加えて柱戸林道。三境林道の途中から支線のように枝分かれしている林道。こちらはまだ走ったことがない。この2林道が主題である。草木湖側から入り梅田湖側へ下りる。前日光基幹林道の長石線を考えているのは、新桐生駅足利市駅の列車本数の差。帰りは便利な駅のほうがありがたいから。②、③のルートも入れてあるので、輪行途中で気分が変わったらルートを入れ替えればいいと思っていた。
 電車のなかで朝食用に持ってきたパンを食べた。やはりなんとなく食が進まなかった。食欲も落ちているよう。まあそれはしょうがないか……。口に入るぶんだけ食べて、しばらく寝る。夜中何度も起きてしまったから寝不足だってあった。
 そんなわけで赤城駅に着いたときにはもう、お腹の具合はだいぶ落ち着いていた。ただ食べるものは食べられず飲むものも飲めず、パンを残し缶コーヒーを残した。パンはあとで食べらればいいやとしまった。コーヒーは残念だけど捨てた。朝食を片付け、自転車を組んでいると、曇っているけど湿度が高く、蒸し暑くなりそうなのが空気でわかった。じっとりまとわりついてくる。気温も上がるだろうか、日差しは強くないからそうでもないかな。

 自転車を組みながら眺めている赤城駅は楽しかった。上毛電鉄東武桐生線が乗り入れている。上毛電鉄には昔の京王井の頭線の車両が走っている。東武伊勢崎線の支線の末端ローカルのくせに、特急りょうもうが走っている。僕が乗ってきた8000系の普通電車がすぐに折り返して出て行くと、今度は特急りょうもうが入ってきた。そのあいだに上毛電鉄はピンクのフェイスの電車と、グリーンのフェイスの電車がやってきて、出ていった。

 

(本日のルート)

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GPSログ

 

 

 もうひとつ今日のルートに入れているテーマは、国道122号を通ることなく、草木ダムまで行くこと。大間々を出てすぐに渡良瀬川を渡り、対岸を行く県道257号と、そこからつながる道で走っていってみようって考えだ。

 大間々ってところは意外にも街で、駅周辺に商店が広がりその外側に住宅街ができあがっている。ロードサイドには大きな駐車場を構えたスーパーがあり、道路は交通量も多い。高いビルこそないものの、住宅街など僕の住む越谷と変わらない雰囲気だ。新しい家も多くて、区画整理中の土地やそこに建てられているこぎれいな一戸建てが増殖していた。それだけ需要が見込まれるんだろう。
 大間々の駅前から進んできた道は、わたらせ渓谷鉄道の踏切を越え、やがてちいさな橋が現れる。これで渡良瀬川を渡る。川の規模からすれば物足りないほどのちいさな橋だけど、でもいいんだろう。交通量は多くないし、この上流にある県道の橋が全体の交通量をさばいている。それよりも大半の交通は川など渡らずにつねに右岸にいる国道122号を通行するのだから。
 しばらく県道にダンプも入りこむけれど、それほど距離も行かないうちに河川敷へ下りていく。他の車も距離を重ねるごとに徐々に減っていき、貴船神社の上り坂にかかる頃には、交通量もほとんどなくなった。
 ずいぶん昔、この辺で転んだなあ──。
 痛い目に遭ったことは覚えている。その場所で思い出す。もう10年近く前だ。
 その時期、台風か何かで通行止めが敷かれた。しばらく通行止めが続いていたのか、車のまったく来ないこの道に入っていくとすでに路面に苔が出ていた。秋に入ってしばらくたった頃で落ち葉が積もっていた。地元の車は行き来があったのだろう、かろうじてダブルトラックがついていた。背の高い木々の陰に入ると、いつの雨の名残だろう路面がかなり濡れていた。今思えばどれが原因かわからない──苔、落ち葉、水濡れ、あるいはそれらの複合要因。少し急な上り斜面が現れたので立ち漕ぎすると、タイヤが耐えきれずに大きくスリップした。これまた今思えば、速度にしたら時速10キロ程度、後輪が滑ったくらいで転ぶとはずいぶんバランス感覚に乏しいもんだ。
 貴船神社の前を通るのが、その転倒のとき以来で、ひどく薄暗く感じた当時の記憶に比べるとずいぶん明るい。じっさい今は新緑の季節でまだ森がうっそうとしているわけでもなく、その違いの印象かもしれないし、逆に当時自動車が通行止めになって苔と路面も見えないほどの落ち葉のうえを走っている不安がそう感じさせたのかもしれない。
 その日は県道をまっすぐ進んだ。道は水沼駅に出るから、駅にある温泉に入って、わたらせ渓谷鉄道輪行して帰った。温泉に、転んだ傷がしみた。

 そして今日は、県道から右折分岐する道でさらに渡良瀬川左岸を北上する。

 道が、県道よりもかえってよくなった。舗装状況もいいし道幅もある。センターラインや路側帯が引かれているところもある。うっそうとした森のなかが多いのは変わらないけど、走ってゆくと「こんな場所に?」と思うようなちいさな集落が現れた。まるで外界と切り離された存在のように、こつ然と現れ、そしてそこは妙に明るい。家があれば畑があり、人が出ては畑を耕していた。人が暮らし、営みがあった。閉そく感がないくせに他とは空気感が異なる。まるで独立生命体のよう。この地に昔話や民話があったなら、それがおそらく現実なんだと錯覚するだろう。河童がいたり、狐が人をだましたり、鳥の群れが子供を運んだり、森の木々が人を道に迷わせたりする世界が、ここにあっても不思議じゃないって本気で思えた。でも、暗さなんかみじんもない。明るい民話の集落がそこにあった。日差しが、ゆるく緑の地面に届いていた。
 楽しい! こんな道だから、走っていて間違いなく楽しかった。
 こんな道が走れるなら、対岸の国道122号なんてとうてい選べないよ──。
 しかし楽しいながらも進みが悪いことは感じていた。ペダルを踏んでも進んでいない。力が入っていない。そしてひざと腰に痛みがあることもわかった。それはいつものちょうけい靭帯炎によるひざ痛でもなく、登坂でよく出る腰の痛みでもなかった。節々の痛みだ。
「──これ、熱か?」
 このとき、はじめて熱があるんじゃないかって気づいた。
 お腹の暴れ具合はほぼおさまっていたし、ならば柱戸林道から三境林道を越えたいって思ってた。林道のピークにある三境隧道を越えてしまえば、極端な話桐生までほぼ全線下りのはず。だから多少体調が悪くても三境林道が越えられればいいなと思ってた。
 ──この体調不良ってじつは風邪だったってこと?

 風景は面白いくらいに、あるいはわかりやすいデジャヴでも見ているかのように、森、集落、森、集落と繰り返した。道は変わらずそこそこ立派で、舗装もきちんとしていて道幅もあった。そして車がまったくやって来ない。とても走りやすくてとても気分がいい。かつて渡良瀬川に沿ってすべて国道122号で足尾まで走ったことがあったけど、大型トラックやダンプが多くて閉口した。車やオートバイがものすごい速度で抜いていった。道はそれしかないと思っていたからそのときは何とも思わなかったけど、こんな道があったのなら、理由がなければ国道を選択する必要もないと思った。
 今は住み手のない家が水の張られた田に映っていた。背後の山が、目が遠近感を失ったようにまぢかにせまり、屏風か背景画のようにそこにある。吸い込まれるように立ち止った。ボトルを取りハーブティを飲んだ。
 絶対に楽しい。この道は。体調が悪くなければなおいいのに。

 

 

 柱戸林道の入り口に自転車を置いて写真に収めた。ここが起点なのだということの覚えと、あらためて来なくちゃいけないという念を込めてだ。

 柱戸林道を分けたすぐ先に無粋な欄干の橋がある。不動滝と書かれた木製の看板、橋の名は滝の上橋。ごおおおおという水量のある流れの音が耳に届いている。滝の上橋というからにはと目線を下のほうに、うっそうとした木々のあいだを這うように追うと、ごくわずかな角度からのみ、その滝の姿を目にできた。見事だ。力強く、白い水の束が放物線を描くように落ちている。不動滝の看板にしたがって進めば滝壺近くまでたどり着けるのだろうか。見事だけどしかし行く人は少ないだろうなと思う。あまりにも知られていないうえ、あまりにも僻地だ。ここに人などいない。
 そこへバスがやってきた。車などしばらく出合ってないものだから驚いた。
 大きいが、コミュニティバスっぽい。止まることもなくそのまま通り過ぎた。橋のたもとには、見るとバス停があった。滝の上橋。誰も降りないし誰も乗らない。バスは初めからわかっているとでもいうように、ただ通過していくだけだった。

 目的の林道をあきらめた僕は、せめて草木ダムくらい行こうよと自身にいい聞かせた。それが思わぬ上りにかかり、思わぬ苦しみを生んでいた。
 熱は、おそらく上がってきていた。節々の痛みは大きくなっていたし、脚にも手にも力の入らない感覚が大きくなっていた。変速を軽くしようが重くしようが力が伝わらなくて、どうしていいかわからなかった。頭が、痛いというまでじゃないけれど重く感じていた。──ああ、風邪なのだ、と思った。しっかり休む必要のある風邪などしばらく引いてない。悔しい。悔やみきれない。せっかく来たのに風邪か。風邪か、風邪か、風邪か風邪か風邪かぁ……。
 ダムはその重厚な姿を目の前に見せるもまったく放水をしていないのであればただのコンクリートの塊だ。草木ダムは築堤の上を通れるようになっているから、これを越えて渡良瀬川の右岸に出る。ただの橋だ。下流側は高みになっていて眺めがいい。正面の山一帯は袈裟丸山周辺だろうか。ルートをガーミンに仕込んできた小中西山林道が巻くように上る山だ。
 じっさいのところそんなふうに景色が迎え入れてくれたところで、だるさが増し関節痛が増し、頭が重く感じ風が冷たく感じるからだだから、受け入れる感性が働いていないようだった。事実を事実としてとらえるのが精いっぱいで、山だ道だダムだとそこにあるもの見えるものを脳が言葉に置き換えるのがせいぜいだ。
 もういいよね。ダムまで来たらそれでひと区切りだよね。──誰にもすることのない言い訳を考える。右岸は国道122号。この大間々方向へ合流した。道は下り基調で、数キロ先の駅、神戸(ごうど)駅に飛び込むつもりで走った。

 

 

 ふだんなら1時間以上の列車待ちがあるならいくつか先の駅や別の路線での輪行を考え始める。でもその気力も起きなかった。どんだけ弱ってるんだ。
 自転車をさっさと輪行袋にしまった。1時間以上ここで待つ腹をくくった。
 窓際に沿って付けられた木製の長椅子のうち、窓から日の入ってくる場所を選んで座った。他に客などいない。いやいないというわけじゃない。この駅には、ホームに沿ってかつて東武鉄道で走っていた特急ロマンスカーの車両を置いて、やっているレストランがある。そこへやってくる人がいるようで、車で来ては改札を抜けてレストランへ行き来している。だから駅舎を通り過ぎていく人はいる。駅舎にとどまる人はいない。僕は駅舎で座っている。風邪なのだ。
 きっぷを買った。東武桐生線への接続駅である相老まで。あわせて手回り品きっぷも。わたらせ渓谷鉄道での輪行には手回り品きっぷが必要なことを、貴船神社近くで転倒したときの帰りに知った。2枚のきっぷを買うとすっかりやることもなくなった。朝、食べきれずにしまったパンがあったけどまだ食べる気も起きない。気候のせいか熱のせいかわからないけど、脱水気味だったから飲みものを買って飲んだ。座り続けていると節々の痛みに悩まされるから、ときどきホームを歩いたりした。歩きまわっていると今度はだるさが襲いかかってきた。また駅舎に戻って座る。座っているとまた節々の痛さを覚えた。

 

 

 わたらせ渓谷鉄道から東武鉄道へ。何本も列車を乗り継いで帰る。
 冷房が、やたらときつい列車があった。でもきっと外が暑いんだろうな。
 半袖の若者が、あえてルーバーの下に立ち、吹き出す風に当たっている。
 僕は少しでも届く風を避けるため、座席の隅に小さくなり、着こんだウィンドブレーカーを首元まで締めて、ひと駅ひと駅進んでいくのをただぼうっと眺めていた。

 

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