自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

奥武蔵グリーンライン(Jun-2017)

 奥武蔵グリーンラインは森の四季を楽しむ道だ。

 埼玉県の西部、比企から秩父にかけた山々の稜線をゆく林道は──ときに尾根からの関東平野が望めることもあるけれど──木々のあいだを縫う。森は、いつのまにか初夏の色を終え、盛夏に移ろうとしていた。まだじりじりと暑いわけでもないし意識がもうろうとしそうな高湿度でもない。でも森はすでに盛夏の色を映し出した深緑に変わりつつあった。


 発端は、Mさんから突然連絡を受けたことから始まった。

「奥武蔵グリーンラインを走りたいんです」

 週末を目前に控えた金曜日は、ほかに行けそうな人を探して誘いかけてみるような時間もなく、とは言え僕自身はどこへ出かけようかと天気予報を見る段階だったので、かまいませんよと答えた。「でも、またなぜ?」と付け加えた。


 僕が奥武蔵グリーンラインに来たのはいつ振りだろう。3、4年前くらいかな、それまでは何度も訪れた場所だった。

 奥武蔵グリーンラインは、鎌北湖の奥から始まる権現堂林道から始まる林道群の通称で、西埼玉の山々の尾根をゆく。峠をいくつも越えていくけれど、その峠はこの道にとっての峠ではなく南北を結ぶルート上の峠だから、必ずしもピークじゃない。ボトムであったり、坂の途中であったり。──稜線上を行く筑波パープルラインや西伊豆スカイラインでの峠と似ている。

 だからと言って西伊豆スカイラインのように美しい道路線形とめくるめく眺望とはいかない。ほぼ全線にわたって木々のあいだを縫う。尾根をゆく道から想像を繰り広げてはいけない。ここは林道なのだ。遠くを望めるのは北向地蔵に向かう坂の落ち着いた場所、顔振峠、刈場坂峠とそれにほんの木々の切れ目を加えた数か所くらい。

 それはそれでいい。僕はそういう道も好きで出かけていくし、遠望が風景のすべてだとも思っていないから。そういう意味ではこの奥武蔵グリーンラインは車通りも少ない、同じ県内にある素敵な道なのだ。かつてよく来ていたのもうなずける。


「坂戸で待ち合わせしていいですか?」

 と僕はMさんに連絡した。

「奥武蔵グリーンラインを通って秩父へ行けるならどこでもいいです」

 とMさんは言った。

 八高線の線路を越えて鎌北湖へ向かう途中から、上り坂が始まる。



「もう一度、走っておかないといけないと思って」

 Mさんはそう答えた。「先週は、ここですでに息絶えて、休憩になっちゃったんで」

 鎌北湖は水が干上がりかけているように僕には映った。こんなものなのだろうか。3、4年前は果たしてどうだっただろう。荒蕪、とまでは言わないけれど雑然と荒れた雰囲気はざわざわと落ち着かない気持ちになった。寂れた昭和の街の風景など、きらいじゃないのに、なぜかここをそういう感性で受け止められない。少なくない釣り人が余計にそう思わせる。早くここを去りたい気分があった。

「リベンジか、何かですか?」

 と僕はMさんに聞く。

「そういうのとは違うんですけど、前回はもう大負けだったので」

 それってリベンジとは違うんだ、と僕は内心苦笑した。


 鎌北湖の裏手から権現堂林道が始まり、同時にそれは奥武蔵グリーンラインのスタートでもある。入口に「県民の森」と書かれた標識がある。僕は徐々に思い出してきた。そしてここからの上り、北向地蔵までがとにかくきついことも。ひたすら続く坂は体感的には10%だと思う。

 リベンジにつきあう僕も、息を切らせただただ上る。一緒にサイクリングって雰囲気じゃない。上るために自分のペースを作っていくしかない。

 ロードバイクが、僕を、Mさんを追い越していく。ひとりの人もいれば、何人もの集団もいる。とにかくどんどん追い越していく。追いかけてみようとか、真似をしてみようなんて気はない。

 北向地蔵まで来ると、下ハンドルに握りかえた。林道の狭い道を左に右にカーブしながら鋭く下っていく。そう、これが奥武蔵グリーンラインの特徴だ。上り一辺倒じゃない。上ったら下るのだ。下るとまた次の峠に向かって上る。上った標高を平気で百メートルくらい吐き出したりする。

 これが繰り返し現れるのだ。一度下ってからの上り返しがとにかく多い。だからじっさいの峠の標高よりもかなり上らないとならない。


 僕も苦しいが、Mさんも苦しそうだ。



 それでもひとつずつ、峠をクリアしていく。稜線上の道は峠がピークに当たるわけじゃないから、峠を越えていく、という印象じゃない。クリアしていくだけ。ひとつひとつ、フラグを立てていくようなものだ。

 だから峠のひとつひとつが越えたという感覚にならない。どこそこの山の何とか峠、国道何号のなにがし峠となると、いつだって自転車を止めて峠の目印を探しては写真を撮っているくせに、なぜかここはそういう気分にならない。峠の碑、看板のたぐいはひとつひとつにあってここに来たことが明確にわかるのだけど、なぜだか僕は峠の碑の前では写真を撮らずに進んでいった。

「苦しい、もういやだ」

 とMさんが言った。そう聞こえた気がした。クランクにかかる力がぎりぎりぎりと音になって聞こえてきそうだ。

「ねえ、次の峠でグリーンライン離れて下りますか? ここは峠ごとに下から道が来てますから」

 と僕は提案した。Mさんは答えなかった。


 一緒に並んで上ったり、自分のペースゆえ単独になってしまったりを繰り返しながら、刈場坂(かばさか)峠までたどり着いた。広いスペースとトイレがあるここで大休止。越生やときがわの方面だろうか、ここは眺望が開けている。ほかにも自転車乗りがたくさんいる。ここまでどれだけの自転車に抜かれたかなあと思う。一台も抜かすことはなかった。たくさんすれ違いもした。抜かされて、ここにきて、それから折り返して、上っているさいちゅうの僕とすれ違った人もたくさんいるかもしれない。

 アスリートサイクリストでいっぱいの道になったんだな──。


「ここからは下りです。秩父に出てお昼にしましょう」

 と僕は言い、僕らは刈場坂峠をあとにした。



 秩父市内で洋食屋に入った。

 秩父だしそばでもよかった。もともとは僕の好みで探した自然食の古民家カフェに行きたかったのだけど、さんざん迷い、やっと探し当てた結果、6月30日まで休業と書かれた貼り紙があった。残念だけど仕方がない。そばを探し、洋食を探し、「ここにしますか」と秩父神社脇のアンジュというお店に入った。

 実は僕の記憶が相当曖昧だったゆえ、刈場坂峠から先の道は決して下り一辺倒ではなかった。まずそもそもその次の大野峠までは上りだったし、そこから白石、定峰と下っていくものだと思ったら、白石峠の手前に高篠峠なる峠があってそこから白石峠まで上りだった。白石峠からは定峰峠を経て、長い長い下りが続いたけど、秩父市内の八坂神社まで下りてくると、そこから横瀬に向かってまただらだらとした長い上りだった。ここからは下りだと言った手前、少しばつが悪かった。

 日替わりランチはハンバーグとエビフライ。エビが食べられない僕はMさんに渡す。

「あの道、すごくつらくないですか? 楽しいですか? 苦しいばっかりですよね……」

 代わりにハンバーグを少しもらいながら、僕は率直に感想を言う。

「確かに。もういいですねえ」

 Mさんは笑うが疲労の色が濃い。僕もくたびれている。

「そういえば先週は白石峠には下りなかったんですよ。県民の森のほうを通って横瀬に抜けて……」

「へえ、そうなんですか。そっちのほうが走りやすいですか?」

「景色が良かったですよ」

「そうなんですか!?」

 僕は驚く。考えてみたら僕が奥武蔵グリーンラインを走ったときはいつも、律義にというわけじゃないけど大野峠から白石、定峰へ下っていた。県民の森へ抜けたことは一度もない。そして奥武蔵グリーンラインで景色がいいと感じたことがなかったものだから、それが意外だった。あるいは残念だったのかもしれない。固定観念で通っているルートが、ピンポイントでいい景色だと思われる場所を外してしまっている。

「自転車もまったくいなくなっちゃいましたし」

 なるほどグリーンラインにたくさんいた自転車はみな、白石、定峰を通るのだ。おまけに白石、定峰はそこを練習目的に上がってくる自転車もたくさんいるから、余計に自転車が多い。そのことを話し、「自転車たくさんいたでしょう、すごいんですよ数が」と言うと、

「でもひとりで来たりするときのことを考えると、自転車がたくさんいるっていうのは安心できますよね」

 と言った。そっか、そんなものか、と思った。


「実は外観から少し心配してたんですけどね、この店」

 とMさんは言った。確かに昭和からそのまま朽ち果てかけた建物は不安を覚えさせたし、店舗が二階で、同様に朽ち果て感のある階段を上らないと店の雰囲気がわからないこともそれを増幅させた。でもおなかがこれ以上ないほど空いてしまっていて、おまけにさんざん探した古民家カフェが空振りに終わったから他を探す気力も途絶えて、ちゅうちょなく階段を上っていた。

「でも扉を開けるとこんなにきれいにしてある店だったとは」

 扉を開けると物静かなマスターが笑顔で迎え入れてくれた。おまけに料理もおいしい、と僕が言うと、そのとおり、とMさんが言った。


 ランチについているコーヒーをゆっくり飲み、店を出ると西武秩父の駅へ向かった。帰路は西武線輪行する。

 コンビニによる時間もなかったので、売店でチョコレートと缶コーヒーを買って電車に乗った。飯能までの西武線はローカルムードを楽しめる。車窓にはさっきまで走っていたであろう緑に覆われた山々が続く。もう、盛夏を迎えようとする緑だ。

「ああ、また行かなくちゃ。また行きたい」

 口を開けておいたアーモンドチョコをつまみながら車窓を見ていたMさんがひとりごとのように言った。

「だって、さっきはもういいと──」

「なかなか不思議な場所です。こう帰り道になると思い出してまた行きたくなる道です」

 Mさんは、奥武蔵グリーンラインが好みなのだろうか。


(本日のマップ)

GPSログ


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▼鎌北湖は農業用水のための貯水池。どことなくうら寂れた感と静かな釣り人が印象的。あちら、今度はこちらと、ときおり竿がしなり糸が投げ入れられる

▼刈場坂峠。移動販売の軽バンも来ている。自転車、オートバイ、車、たくさんの人が訪れる

秩父神社脇にある洋食屋、アンジュ

▼日替わりランチとコーヒー

▼やっと見つけたものの、休業中だった月のうさぎ