自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

陽光霞ヶ浦と鹿島鉄道エレジー(Feb-2020)

 輪行袋を抱えてわざわざ取手止まりの快速に乗ったのには訳があって、今回手に入れたいきっぷ『ときわ路パス』が茨城県内の駅じゃないと買うことができないからだ。本来乗りたい水戸ゆきのひとつ前の電車に乗って、利根川を越えた最初の駅、取手で降りた。階段を上り、改札口を一度パスモで出る。それから券売機で、おトクなきっぷを押すと現れる茨城県限定のそれを買った。改札口を買ったばかりのときわ路パスでくぐり、階段を下りるとちょうど一本あとを走る水戸ゆきが入ってきた。
 暖冬といわれるなか、久しぶりにまともな冬の寒さのやってきた数日間だった。そんななか土曜日は日中寒さがゆるむという予報が出ていた。
 天気も悪くないし出かけるなら土曜日だと決めたものの、朝は前後の日に負けないほど寒くて、越谷も氷点下だった。例年なら氷点下になる朝は日常なんだけど、今年はいかんせん暖冬、体が氷点下に慣れていない。おまけに僕は寒さが大の苦手ときてる。暖かさが戻るという予報、時間別天気のふたを開け見ればお昼時だけだった。9時10時11時に3度4度5度という気温が並び、寒さに恐怖を覚えた。

 

 高浜という駅は土浦からふた駅なのにローカル色の濃い駅で、水戸ゆきの電車が出て行ってしまうと、ホームから遮るものなく筑波山を望めた。冬の澄んだ空気で、それなりに距離があるだろう筑波山が細かなところまでいちいちくっきりと見える。
 僕は跨線橋を渡り、上り線のホームから改札口を出た。駅前には日差しが降り注いでいた。
 暖かくなるかもしれないな──氷点下の寒さを忘れてしまった僕は、おそらくこれまでにない重ね着をしてきた。ヒートテック、セーター、薄手のパーカー、自転車用のジャケット、ウィンドブレーカー。……5枚である(笑)。ウィンドブレーカーは電車の中の暖房が心地よかったので脱ぎ、そしてここでパーカーを脱いだ。若干寒いけれど、走るからこれくらいは大丈夫かなって思う。(ちなみにこの着衣はすべてお勧めしません。ヒートテック、ニット素材、綿素材はいずれもスポーツには不向きと他を検索すればすぐ出てくると思います。ぜひ化繊素材のスポーツインナーを選んでください。そのほうが幸せになれます)
「良がったなあ天気よくなって」
 駅前で自転車を組み上げている僕に、そこにいたおじさんが話しかけてきた。駅に送り迎えか何かだろうか。
「あっち行くんか?」
 そういって筑波山のほうを指さす。
「いえいえ、反対です」と僕は答え、東に向けて指さす。「霞ケ浦へ行きます」
「そうかそうか。今日は気持いがっぺよ」
「本当ですねこんなに晴れるなんて。うれしい限りです。寒いですけど」
「今朝はさみがった。──道の駅さ行ぐんだべ?」
 道の駅もたくさんあるだろうに、どれかわからないけど、おそらくたまつくりのことだと思う。玉造には行くのだけど、道の駅までは行かないつもり。僕はそうですね、そんな感じですと笑って答える。
「今日はあったかくなるべ。気持いいと思うよ。でも土浦から走んねぇんだ。向こうもごうのほうがうんと整備されてっぺよ」
「そうですね、でも今日はこっち側を走りたくて」
「まあ気ぃつけてな。俺もむかし走ったことあんだぁ」
「そうでしたか。気持いいですもんね」
 僕は荷を整えると、おじさんにありがとうございましたといって高浜駅前を出発した。

 

(本日のルート)

 

 

 駅前からいきなり細い道で、それはすぐに恋瀬川の河畔に出た。あとはもうこのまま左岸に沿って行けば自然と霞ケ浦(西浦)になる。岸では鴨か雁か、相当数が日向ぼっこでもするようにたくさんまどろんでいて、警戒心が強いのか僕が通る気配を察すると一斉に飛び立っていく。それが岸に沿って続くものだから、羽ばたきの音がすさまじく、動きはサッカー観戦のウェーブのようだ。
 湖畔に沿った道はサイクリングロードではない。バイクも車も走る。でも交通量はきわめて少ない。走っていく車の大半はポイントを探してまわる釣り人で、あとは走ってすぐ脇道へ入るここらの家の人だった。湖岸の湾曲に沿う道はスピードも乗らないし距離だってかさむ。移動を目的にした交通には向かないんだろう。そんなわけで僕はこの道をひとり占めし、360度をぐるぐる見まわしながら走った。くっきり浮かぶ筑波山は相変わらず見事で、それを背景にした大きな湖のようすに僕は何度も足を止めた。

 

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 駅前で会ったおじさんがいうように土浦駅を起点にしなかったのは、ひとつはこちらのほうが圧倒的に静かだから。土浦からの霞ケ浦湖岸はすっかり整備が進み、自転車も集まり走るようになった。喜ばしいことなんだけど、僕はたくさんの自転車が連なって走るところを一緒に行くのは好みじゃない。大半の自転車は霞ケ浦大橋より南側を走るから、ここは静かなのだ。
 もうひとつは、やがてここに現れる鹿島鉄道の線路に沿って行こうと思っていたから。

 

 鹿島鉄道はかつてJR石岡駅から玉造を経由し鉾田までを走った、今はなき鉄道路線。2007年に廃止され、13年になる。全線非電化単線、キハが一両で行き来するようすからみれば、運転免許世代がひとり一台車を保有するような地域でむしろよく21世紀まで残ったと思う。じっさいには貨物輸送があったゆえ成立していた路線だった。
 僕は残念ながらこの路線に乗ったことがない。もっというとこの路線の存在さえ知らなかった。あるとき人との会話のなかでその名が挙がったことがあった。てっきり鹿島臨海鉄道のことだと思い会話を続けるものの、その後の話がかみ合わないのですり合わせてみたら、そういう路線があるのだと知ったくらいだった。大人になってからだった。
 いつだか車でこの一帯を走ったことがあった。そのとき、アイボリーに薄紫色の帯を巻いたバスみたいな気動車とすれ違った。僕が見た鹿島鉄道はおそらく、それが最初で最後である。

 

 右に霞ケ浦、左は枯れ田んぼが延々と続く湖畔の道を走っているうち、すぐ左に石積みされた築堤が並行していることに気づいた。まぎれもなく鉄道線路の築堤だった。どこから現れたのかもわからなかったから、あるいは途中まではもう田畑に帰されてしまったのかもしれない。ここだけ残されていて、だから突然現れたように見えると考えれば自然な気がした。
 築堤に近づき、その上に出てみた。間違いない。そこは平坦にならされたバラストの路盤だった。
 雑草もほとんど見られない。季節的なものか、それにしても廃線後13年もたって雑草に覆われないことってあるのか。あるいは手入れをしている人がいるのか。
 僕は路盤の上に立って霞ケ浦を眺めた。日の光を受けてきらきら輝く水面は、湖岸道路から見るよりも一段高く、それだけで違った風景に見えた。僕は鉄道車両から見るこの風景を想像した。ここにレールが敷かれ、その上を行く大きな鉄道車両を考えると1メートル半ないし2メートルは視線が高くなるはずだった。ちょっとした高みから望む霞ケ浦の風景は、石岡から玉里、小川の町なかを走ってきた風景から一転、急展開で開けたに違いない。東海道線が早川を出発したときのように、見下ろした“抜け”の景色は、思わず背をよじって窓に釘付けになったに違いない。
 湖岸道路をふたり組の自転車が駆け抜けていくのが見えた。
 少し先へ行くと駅があった。それがそうだとわかるだけ立派なプラットホームが残っていた。島式のプラットホームにさらにもう一本側線がありそうな広い構内だった。島式ホームの片側の路盤は太陽光発電パネルで埋まっていて、もう一方の路盤は築堤から続くフラットにならされたバラストだった。石岡方面に目をやると、信号機の支柱と台座が残っていた。信号機自体は取りはずされていた。ホームの上には待合室もなければ屋根もなかった。もとからそういう駅だったのか、すべてが取り払われたのかはわからなかった。そんなふうに駅が存在していた。ここに、確実に。

 

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 僕は線路に沿って走ってみた。その道は住宅の前の路地でもあった。家々の塀や生け垣が並び、門から人や車が出入りするようなそんな路地だった。それをしばらく行くと住宅が途切れ、周囲が田畑や空き地になり、同時に道も未舗装になった。小砂利を入れたダブルトラックの幅は軽トラック幅と思わせた。なんともいい雰囲気になった。築堤、廃線の路盤、農道かあぜ道のようなダブルトラック。
 道が小上がりを上がって築堤の高さに沿うと、かつての踏切があった。そこに見事なまで踏切板とレールが残っていた。レールの上は驚くことに光り輝いていた。車や人の往来があって磨かれるのだろうか、列車が走ってるときのような鉄の素地が現れていた。
 小さな橋もあった。ガーダー橋というにもおこがましいほどの、短いH鋼で組んだだけの橋桁が残っていた。
 そんないちいちを見つけ、立ち止まり、寄って眺めた。だから全然進まない。湖岸道路を快走していくグループが少数ながら見えた。まるでうさぎとかめだ。──いや違う、うさぎがスピードに乗って休まず快走するのに対し、かめがこうして寄り道ばかりを繰り返すのだから、これじゃ物語が逆だ。
 次の駅は周囲が藪化していく中にひっそりとあった。対向式ホームがひとつだけの駅だった。ここには待合室もあった。ブロックを積み上げセメントを塗って作った、古い公園のトイレのような待合小屋だった。中にはベンチも残されていた。きっとすべてがこのままだったんだ。レールや、信号設備、通信設備といったものが取り払われただけで、駅は変わっていないんだ。すべてが、まるで少し傷んだ8ミリフィルムを映写しているような、じめっとした光景だった。でもそれが余計に確固たる存在感を示していた。

 

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 玉造は鹿島鉄道の中間の大きな町で、路線もここを境に霞ケ浦湖畔から離れて鉾田へ向かう。
 駅は玉造町でそれなりに広い構内を持っていたと想像するんだけど、跡形も見ることができなかった。代わりに駅前がバスの停留所兼転回所として使われているようだった。バス停は二本も立っていて、ひとつは関鉄バスだった。石岡と鉾田と土浦に向かっていた。これはもう要衝といっていい。もうひとつは行方なめがた市のコミュニティーバスのようだ。
 バス停には「玉造駅」と書いてある。──鹿島鉄道の駅は「玉造町駅」だったと思う。

 

 

 もちろん僕も鹿島鉄道に沿って霞ケ浦(西浦)を離れた。
 かつての線路に近い道を選んだ。廃線跡を見つけられるとかそうでないとかにかかわらず、どういうところを鉄道が走り、どういう風景が眺められたのかってことに関心があった。景色を楽しむ電車ごっこといってしまえばそうかもしれない。
 そういった意味では、鹿島鉄道の路線跡に近いところを走ろうと目的を置かなければ選ばない道だったかもしれない。地図だけ見て、ただ北浦へ向かおうとか、鉾田の町なかを目指そうとか考えたら、行ったり来たり曲がったりすることのない、単純な一本道を選択していたと思う。
 そして、この風景はどうだ。

 

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 この道はどうだ。
 僕はぐっと来て、楽しくていられなくなった。この光景、この風景、この道の連なり、鹿島鉄道をトレースするように引いたルートや地図からじゃ想像もしていなかった。台地の上になだらかな、かといって均一ではない複雑な起伏を持ち、その中を道が何重もの弧を連ねてつながっている。美しいと思うし、この風景の中にいることに酔える。
 こういうときばかりは、僕にも写真の技術がほんの少しあったらいいな、と思う。
 ──この近くを鹿島鉄道は走っていたのだ。
 車窓には僕の今見ている光景が広がり、もし僕がそこに乗って窓を眺めていたら今と同じように思うんだろう。いい道だ、と口に出すのだろう。そして今度は自転車で走りに来ようって思うのだ。あるいは歩いてみようって思うのだ。
 今日の傑作ルートは、鹿島鉄道が授けてくれた。

 

 鹿島鉄道もいよいよ終盤。終点鉾田のひとつ手前、坂戸駅に立ち寄ってみた。

 

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 またすごい駅だ。またすごい残り方だ。原形をとどめた路盤とホームが往時を思わせる。待合室もある。ホームの側壁を固めているPCなんてひとつも朽ちていない。水あかやカビやコケといった汚れもほとんどない。待合室など板張りというべきかログハウスというべきか、びっくりするほど強固で、荒天にもびくともしない雰囲気さえある。周囲の伸び放題の木々から落ちたであろう落葉が、路盤もホームも埋めている。この葉っぱをはらえば、フラットにならされたバラストがきっと現れるはずだ。
 僕はスロープからホームに上がってみた。
 なんだか警笛を鳴らしたキハがここに入ってきそうだ。
 廃線だから何の放送が鳴るわけでもない。でもここは現役のときもそうであったと想像させる。駅舎もない無人駅には駅員による放送が流れることはない。自動放送だってなかったろう。列車進入のサイレンのような合図や、発車のベルもなかったはずだ。タイフォンを鳴らし、ガラガラガラとディーゼルエンジンのアイドリングを響かせた気動車が入ってきて止まり、エアの音とともに扉が開く。再びエアの音とともに扉を閉め、タイフォンをまた軽く鳴らしてエンジン回転数を高めて発車していくのだ。それだけの音しかない。そういう駅なのだ。
 われわれは今、鉄道ひとつ乗るだけでいろんな音に毒されている。
 僕は列車の出発を見送ったような気分でホームのスロープを降りた。そこには25キロポストが残されていた。鹿島鉄道石岡駅から25キロの地点だった。

 

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 関東バスの営業所になっていた鉾田駅まで来て、プラットホームの残骸を見ることで鹿島鉄道の旅は終った。

 

 お昼代わりに、ロードサイドのたこ焼き屋でたこ焼きを食べた。それから甘いものが欲しくなって今川焼も頼んだ。すると注文ごとに焼くんで時間がかかるからとコーヒーを入れてくれ、食べ終えたころにはお茶を入れてくれた。
 たこ焼き屋をあとにすると、午後は北浦に沿った。
 きちんというなら北浦も霞ケ浦の一部に違いないんだけど、例えばカスイチと称して自転車で一周する人たちのあいだでは、北浦はたいてい含まれない。河口でつながっているだけで方角も違って広がっているし、両湖畔の全体をつないで距離にしたら相当なものになる。自転車で一周するには適当ではないからだと思う。
 湖畔に出ると強い風にあおられた。風向きが東寄りに変わっている。これは予想していなかった。土浦霞ケ浦周辺は筑波おろしという筑波山からの北西風が吹くことが多いと聞く。じっさい午前中もまさにそうだった。玉造までは追い風で、鉾田までは横風だった。しかしここに来て東風、鹿島灘からの海風なんだろうか。強さがそれなりにあって、向かい風になる機会も多くてきつい。
 北浦は幅がそんなに広くないから対岸が良く見える。鹿島臨海鉄道の高架線が長く直線的に走っているのまで見える。もちろん場所によって広い狭いはあるけれど、こうつねに対岸が見えるとまるで川みたいだ。もっとも河川法では利根川の支流のひとつらしいけど。
 河川に見立てていうなら、右岸を南下した。
 湖岸は細かく入り組んでいて、流入河川があるたびに大きく迂回させられる。道は霞ケ浦(西浦)のときと同様、サイクリングロードではないけれど、交通量が少ないゆえ、安全に楽に走れる。ただ、流入河川のある場所で迂回させられるときなど、未舗装の滑りやすい砂利道になるところがいくつかあった。

 

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 今回、北浦自体に目的を持っていたわけではないのだけど、途中に寄りたい場所があった。つくだ煮屋だった。
 僕はつくだ煮といえば佐原にある店が好きで、サイクリングにせよ近くを通る折にせよ寄っていたのだけど、昨年末親戚への年賀にと買いに来た折、
「今年いっぱいで店を閉めることにしたんです」
 と告げられた。僕は驚きと落胆に暮れ、最後の買い物をした。跡継ぎのいなかったであろう老夫婦に、「今まで本当にありがとうございました」と送られ、僕は同時につくだ煮を買い付ける先を失った。
 昨年のいつ頃だったか、霞ケ浦の湖畔にある日帰り温泉に出かけたことがあった。霞ケ浦を一望しながら温泉に浸かれる絶景の温泉だったのだけど、また調べればわかるだろうって名前も場所も記憶せずに終えてしまった。が、そこの一角にあった小さなお土産コーナーで偶然手にしたつくだ煮を覚えていた。帰って食べたらなかなかの好みだったので、パックに貼ってあったシールの名前を地図で探すと、店は北浦湖畔にあった。それを覚えていた僕はここを今回のルートに組み入れた。
 まるでそこは農家の屋敷だった。門を入ると家が何軒か建っていて、つくだ煮屋には思えない。最も奥の角に、店の名前を掲げた建物がある。そこへ近づいてみるが、戸は閉まっているし、店というより作業場だった。商品があるのかさえわからなかった。暗い店の中を覗くもどうしたものかと入れずにいると、中からおばちゃんが戸を開けた。
「こんにちは」僕は小さな声とともに会釈をした。「こちらでつくだ煮は買えるんですか」
 僕がそういうと、「どうぞ」とおばちゃんは中に招き入れた。中は外から想像したそれと相違なく、作業場、加工所といった雰囲気だった。少なくとも商品を並べた棚やショーケースはない。
 おばちゃんは店の隅にある冷蔵ケースのふたを開けて見せた。「ここにあるだけなんですけどね、良かったら見てください」
 全品三百円、と書いてある。──三百円?
 僕はくるみちりめん、ほたて、昆布を選びお会計をしてもらった。三つで900円。
「いつがお休みなんですか?」
「日曜日以外はだいたいやってますよ」
「いちばんそろってるときっていつですか? 午前中来るともっといっぱいあるとか」
そう僕が聞くと、おばちゃんは少し困ったような顔をして、
「う~ん、そのときどきですね。いつもあるものがあるだけで」
 といった。
 なるほど。狙いどきはわからない、品ぞろえは来たときの運、ってことはわかった。

 

 つくだ煮を手に入れた僕は満足して、まだ新しい北浦大橋で対岸へ渡った。今度は左岸でさらに南下する。
 鹿島神宮の駅を目指していた。
 それはゴールであると同時に目的のひとつであった。

 

 日が西に下り始めた。左岸にもまた湖畔に沿うように道路があり、延々と続いている。ひたすらこれをたどった。日に照らされた湖面がキラキラと光り、正面に入った西日はまぶしかった。風は相変わらず東から吹いていて、湖畔が東を向けばつらく、西を向けば楽だった。
 爪木ノ鼻と呼ばれる砂嘴さしの突端を緩やかなカーブで回り込むと、JR鹿島線の長い長い橋梁が目の前に近づいた。どこまでも真っ直ぐに続いていて凄みのある美しい鉄橋だ。これが見えれば鹿島神宮駅ももう近い。500メートル刻みで立てられている北浦のキロポストが1.0キロを示した。
 僕は鹿島線の線路に沿うように田んぼの中の道へ入った。達成感を目標にするわけでもないので、北浦の終点で0キロポストを見る必要はない(おそらく国道51号神宮橋にそれはある)。駅に行くことのほうが目的なので近くて車の少ない道を選んだ。

 

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 ごおおおおおと音を立てて電車が駆け抜ける。高架線の上を行く鹿島線だった。ああ、北浦を走っているときに来てくれれば写真に収めることができたのに、などと思う。本数の少ない路線ゆえ、めったにない機会だった。
 ただ、本数の少ない電車が行ってしまったことに対する焦りはなかった。次は何時間後だ? と慌てることもなかった。なぜなら鹿島線には乗らない、、、、、、、、、からだ。
 ここ鹿島神宮から僕は鹿島臨海鉄道に乗る。つまり、水戸をまわって帰るということだ。
 ──こんなことをする人なんているだろうか。
 乗り鉄さんくらいのものだ。そう、僕の目的も乗り鉄だった。サイクリングを兼ねて、その輪行を兼ねて、乗り鉄を楽しんで帰ろうと思った。鹿島から水戸をまわって都内へ向かう──地図で見たらとんでもない遠まわりだ。
 しかしこの物好きのために、朝わざわざ取手駅で降りて買った『ときわ路パス』が活きる。フリー区間にここ鹿島線から鹿島臨海鉄道全線、そして常磐線取手までが含まれるのだ。
 高架線上の駅が見える。そこには鹿島臨海鉄道の古いほうの車両、6000系が止まっていた。
 ここで信号待ち。僕は慌ててこの待ち時間に時刻表を調べた。──14分後。
 いいねえ、待ってろよ、乗るからな──。
 ギリギリである。
 僕は青になると急いで駅前に入り、ギアをアウター×トップにした。本当は北口のミニストップでドリップコーヒーを買って乗り込みたいなと思っていたけど、さすがにその時間はない。あきらめた。急いでパックする。コーヒーは自販機でブラックのホットを買った。
 改札口でときわ路パスを見せ、はい、どうぞの声もまともに聞かぬまま高架ホームの階段を上がった。赤と黒に塗られた6000系気動車が、古くさいエンジンのアイドリング音を響かせている。
 よしよしよし、間に合った。

 

 僕は今日、初めて鹿島臨海鉄道に乗る。

 

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