自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

酉の市2019

 見返していたら、昨年酉の市に出かけたときもここに記事を書いてました。
 忘れてた(笑)。
 そしてまた、今年も出かけた。

 

 一の酉。今年は11月8日、金曜日。
 去年までに得た教訓で、遅めの時間に行くことにした。
 浅草おおとり神社の酉の市は24時間行われている。11月の酉の日(2回、あるいは3回)、一年の活気をすべてここに集中させたような、ため込んだマグマみたいなエネルギーがそこにはある。そして最近気づいた。商売繁盛の縁起とか、神仏頼みとか、運気向上とか、そんなことじゃなく、このエネルギーを肌で感じるために行っているのかもしれないなって。もっというとエネルギーは肌というより、もはや体全体で受け止めなくちゃならなくて、下町気質かたぎのガサツというか、あけすけというか、人んちに土足というか、そんなべらんめぇな空気は正直僕には合わないんだけど、それでもこのエネルギーは体感する価値があるし、全身に取り込んでまた一年仕事しようって源泉になる。さい銭を投げ柏手を打ち、神を拝んで商売繁盛を願うよりも、ここで買う熊手を一年飾って運気をかっこむ、、、、ことに期待するよりも、参道を歩き社殿で参拝し、社務所で熊手を買い、果てしなく続く屋台の列のなかを抜けていく、このつつがない一連のなかで感じられる、周囲の華々しくも無駄に前向きなエナジーを、受け止めに行くんだろうな。そう思う。
 仕事を終え家に戻り、夕食を済ませた。それから少しくつろぎつつ、コーヒーを飲もうかどうしようか考えて、カップじゃなくステンレスマグに落とした。そのマグを持ってスバルに乗った。
 夜の国道4号は思いのほかごみごみしていた。でも渋滞しているわけじゃない。夜の道路は好きだ。独特の空気感──一日から解放されたリラックスやら重たい責務を持ち帰ってしまったメランコリーやら一日ぶんあるいはそれ以上の誰の彼ののデトックスやら、そんな何やかやの混沌が淀むように、それこそ目に見えそうな淀みがそこにある。僕は夜の国道を音楽もかけずに車を走らせた。
 ときに同乗する人で、僕が音楽もかけずにいると、
「何も聞かないんなら、好きなものを聞いていいかしら」
 という人がいる。でも僕の無音は「聞くものがないから聞かない」わけじゃない。無音が良くて何もかけないのだ。僕のいうところの無音は、無音という音楽を聞いている、と同義だ。
 僕のことを知るごく身近な人はそんな勝手を理解して、同乗しても無音に付き合ってくれるけど、知らない人にはわかるすべもない。でも僕がそんなことを主張したところで理解されるはずもないし、そこまで懸命に説明しようという気力もないので、そんなときはお好きにどうぞと譲ってしまう。
 僕は何もかけないまま走り、国道4号でそのまま東京都へ入った。
 22時をまわっていた。浅草周辺はびっくりするほど車が走っていて、びっくりするほど人が歩いていた。規制も大きく張られ、広い区画で入っていくことができない。期待していた近場のコインパーキングはどこも「満」の表示だった。僕は浅草から吉原、三ノ輪、入谷と二周もするはめになった。今年はなんだってんだ、といいながらぐるぐると界隈をまわった。結局さらに手を広げてようやく止められたのはもう南千住に近い日本堤のコインパーキングだった。

 

 夜10時半を過ぎてずいぶん経ったっていうのに、国際通りの歩道には人があふれていた。警察の拡声器は通行整理のため絶え間なくがなり立てていた。僕はゆったり参拝できるようあえてこの時間を選んできたのに、余裕などひとつもなかった。立錐の余地もない列は、そういえば仕事の帰りに立ち寄っていたころがこうだった。まるで19時台から20時前後にかけたピークタイムみたいだった。どうしてこの時間にこんな人出? ──ともかく混んでいた。なんでだろう、今年は二の酉までしかない(酉の日が二日しかない)から? それでこんなにも変わるもの? 去年5分10分でお詣りした同じ場所で果てしなく時間を費やした。小さな神社の鳥居から社殿まで50メートルほどしかないわずかな参道に1時間以上要した19時台のことを思い出した。やれやれ。そう、ともかく混雑していた。
 途方もない時間ののち、僕はさい銭箱前に投げ出され──そこは社殿前というよりもそういったほうが適切だ──、後ろからの人肌触れ合う密集した長い行列のプレッシャーを受けながらさい銭を投げ、柏手を打った。ようやく、この一年が終る。

 

 ぐったりとしていた。熊手を手に長い長い屋台の道を歩いていく。そこで唐揚げかベビーカステラかそんなライトミールを手に入れようかと思ったけどかなわなかった。多くがもう店じまいしていた。11時半になろうとしていた。
 よかった、危うく酉の日が終っちゃうところだったよ。
 ふとそんなことにも気づいた。
 ぐったり歩く。でもこのぐったり感が、この地に無駄にあふれるエネルギーを受け止めた証なんだ。他方の計り知れないエナジーを受け止めるには、自方の底知れぬエナジーを沸き立たせないとならないのだ。そういうことだ。

 

 吉原を抜け日本堤まで来るとまるで喧騒とはかけ離れた世界まで来たみたいだった。最近じゃすっかり多くなったトゲトゲしくてまっすぐなLED街灯の光を受け、スバルがすっかり冷えて止まっていた。

 

 

 なんでまたこんなに混雑する浅草鷲神社に、凝りもせず毎年行くのかは、去年の記事で書いていました。まったくもって重複してしまうので今年は割愛です。興味ありましたら去年の記事もご覧ください。

  

nonsugarcafe.hatenablog.com

 

 毎年行って、毎年写真を撮っていますが、毎年同じ写真にしかならないので、写真も省略……。