自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

千曲川、小布施、松代(Sep-2019)

 長野県、村山橋へ行った。
 長野電鉄の線路が千曲川を渡る橋。
 同時に、国道406号が千曲川を渡る橋でもある。
 鉄道道路併用橋。

 

 橋としては二世代目。もともと併用橋だった橋は、新たに掛け替えられても併用橋だった。複車線化された国道406号、この長野から須坂へ向かう下り線の端に、長野電鉄の単線のレールが敷かれている。
 僕は千曲川の土手を自転車で走り、橋の長野側へやってきた。
 下り線の歩道、これが線路に最も近い。
 列車の時間を調べてきたわけじゃないから、今ここで列車と並走できるなんて都合よくはいかないだろうな──。
 僕は橋を渡り始める。
 近代的な橋だ。大きなトラス橋が二本、並んでかかっていて、そのなかに高規格の二車線道路が通っている。さらに、歩道と線路。歩道にもしっかりした広さがある。
 歩道と線路とは高い壁で遮られていた。腰の高さほどの欄干に、さらに僕の身長よりも高い壁。確か旧橋は欄干しかなく、その向こうをすぐ列車が行き来していた覚えがある。もっとも旧橋には歩道がなかったから、車が往来する車道で立ち止まるなんてことはできなかったろうけど。
 壁はアクリルか何かのクリアなボードだったけど、赤茶色に汚れきっていた。水色に塗装された鉄の欄干も同じ色に染まっていたから、きっと錆なんだろう。錆も橋から浮いたものじゃなく、電車のブレーキによって飛び散った鉄粉や何やらが付着したんだと思う。

 

 まあ期待はしていなかったけど、やっぱり列車は来なかった。
 橋を須坂側に渡るとそこに村山橋を記念するモニュメントがあった。歴史を説明するボードもあった。しばらく読んでみたのだけど、ほとんど頭に入らなかった。
 そろそろ行こうかどうしようか、手持ち無沙汰にしてたところへ、踏切の警報機の音が聞こえた。──おっ、列車が来る。
「どっちだ?」
 線路に近いところまで走った。列車時刻なんか調べていないから、どっち方向の列車が来るのかもわからない。でも幸いなことに僕から見て坂を下った先、須坂方向に信号機が見えた。それは「赤」現示。とすれば逆方向、須坂から坂を上ってくるほうの信号機が「青」現示のはずだ。
 長野ゆき特急。坂を上って村山橋へ消えていった。

 

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 長野電鉄は古くから自社車両の走る私鉄で、特急も走らせていたことから、特別車両も自前で持っていた。しかしながらそれら車両は老朽化が進み、地方私鉄のご多分にもれず、置き換える新型車両を製造することはなかった。ほとんどの地方私鉄がそうしているように、今は都市圏のJRや私鉄の中古車両を手に入れ、走らせている。
 長野電鉄に、僕にとって少しだけ特別な電車が走っている。僕がそれこそ物心つく前からの、出かけるとき、そして成長とともに通学で、通勤で、さんざん利用した地下鉄日比谷線の車両である。いつだってぎゅうぎゅうの日比谷線、冷房なんかついていなくて、帯すらない全身銀色ステンレス素地の車体──もっともピカピカの銀色のそれは当時、斬新かつ新鮮であった──だったこともあって、
「これはやかん電車だ!」
「暑い! 今日も車内は沸騰だ」
 などと通学途中の友人と小馬鹿にしていた。そしてじっさい、乗ると大変暑かった。
 そんな車両が僕の近くからいなくなってもう何十年になるだろう。
 さんざん文句付けてたくせに、いなくなって、こうして長野電鉄で出合えたら、うれしいに決まってるんだ。
 僕は数年前、志賀草津道路渋峠)をサイクリングしたとき、帰りの輪行湯田中からの長野電鉄に乗った。やってきたのは懐かしいそいつだった。形、物、音、空間……、思い出すところもあれば記憶につながらないところもあった。
 踏切が鳴ったとき僕はほんの少しの期待をいだいた。でも村山橋にやってきたのは特急だった。特急は、塗色もそのままの、かつての小田急ロマンスカーだった。

 

 

 9月、秋分の日の三連休、僕は千曲川沿いを走り、村山橋を渡って小布施まで行った。小布施のまちを散策することを楽しみにしていたんだけど、そこは驚くばかりの人また人だった。国道から駅、路地から路地まで人が大勢歩き、立ち止まり、写真など撮っていた。まるで原宿か渋谷にいるみたいだった。それに人だけじゃなかった。観光にやってくる車と、観光バスが同様にまちに入ってきた。人も車もバスも何もかもが方向性なく入り乱れ、進むに進めない。この混沌は原宿渋谷以上だった。だって原宿渋谷は人と車やバスが混在することってないんだから。まちの真ん中を国道406号が通っていて、道は古くて狭かった。歩道も段差だけの狭いもので、歩く人はときに車道にはみ出さざるを得なかった。まち全体でも駐車場は少なく車は徘徊する認知症のようだった。僕は昼どきにここに来てしまったがため、仕方なしに大混雑の店のひとつに名前を書き、ただ待つことを選んだ。ただじっと。退屈で、もう経験したくないほどの長い時間だった。とんでもなく長く感じるそれは、もう名前を呼ばれることなどないんじゃないかって思った。まちを出てロードサイドで牛丼でも食べればいい、気付くようにそう思ったのは待って45分たってからだった。失敗したと思った。でもここまで待つとそれも悔しいだけだった。結局1時間と5分ほど待ち、案内され、食事が15分して出てきた。栗おこわはたいそう美味しかったけど、プロフィットとロスでいえばロスが勝っていた。明らかに。2時間半近く所在した小布施のまちをようやく出て、須坂を抜けて松代まつしろへ向かった。国道406号をまっすぐ走った。向かう途中、何度か青看標識に長野電鉄の駅名が記されているのを目にした。でももうそれは存在しないはず。廃止された屋代線の駅名に違いなかった。なぜそんな表記があるのかわからなかった。そして僕は松代の町に着いた。真田の城下町だった松代は、各所々々にさまざまな面影が残っていた。町の偉人佐久間象山もほうぼうで名を残していた。鉤状の道路あり、脇水路がふつうに流れる路地あり、ゆっくり見て回りたいと思った。きっと見ごたえにあふれているに違いなかった。そして廃止された屋代線の松代駅にたどり着いた。自転車を降り、僕は列車が来ることもない駅のベンチに座った。
 間違えた。
 僕が重きを置くべきは小布施の町じゃなかった。栗とかどうでもよかった。僕は松代をもっと見るべきだった。あるいは旧屋代線や、わからずじまいの屋代線の駅をもっと細緻に追跡すべきだった。バランスを真逆に置き間違えた。今からじゃ無理だった。手持ちの情報もないし、もう松代駅の駅舎内には傾きかかったオレンジの日が差し込んでいた。

 

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(本日のルート)