自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

週末どこへ出かけようか

 僕はサイクリングに出かけるにあたり、わりとルートを厳密に引くほうだと思う。ここでも何度か書いたとおり、「ルートの物語性」を思い描き、それを大事にしながら組み立て、風景や展開を想像してルートを引いている。できあがるころには、細かな路地一本にさえ意味を持たせていたりすることがある。
 書き上げた文書や作品を何度も手直しするように、計画中のルートも何度だって引き直しする。修正があと戻りできるように、下書き途中のルートを残していたりもする──僕のGPSiesのアカウントなんてときどき掃除しないとゴミだらけ。そうしてルートを作り上げていくうちに、徐々にきつきつとしたものができあがってしまうのだ。

 

「今週末はどこかに出かけるの」
 と尋ねられることがある。それが週明けだったりすると、
「うーん、茨城県北か、山梨の北西のほうかなあ。房総も片隅にはあるんだけど……」
 などとあいまいな答え方になったりする。
「いったいどこへ行きたいの?」
 そうやって苦笑いを誘ってしまうのはつねである。
 別にあてどもなく走ろうなんて思っているわけじゃないのだ。行くとなればきちんとルートを引くし、この時点でもうルートができあがっていることもある。
 あいまいなのは、出かける方面を決めていないからである。
 それを決めるためのいちばんの要素は天気である。週明けだと週間予報が出たばかりで、週末などまだまだ確定的じゃない。あいまいだと天気予報側も「とりあえず曇で40%としておこう」感がありありだ。せっかく出かけて雨に降られるのも嫌だし、運のいいことに──そう滅多にないことだけど──どの方面を取ってみても晴れ、天気よしってことになると、今度は行きたい場所同士で天秤にかけはじめる。同じくらい行きたい場所が並んでいて、じゃあ今週末はどこにするか、ぎりぎりまで決められなかったりする。

 

 鉄道紀行作家の宮脇俊三が、著書のなかでこう書いている。

 私の鉄道旅行はスケジュールが決まりすぎていて味気ないように思われるだろう。たしかに、時刻表をたよりに暮夜いろいろ検討した結果を実行するのだから、列車事故でもない限り身動きならぬ計画となるのだが、それは方面別の計画内容であって、どの方面の計画をいつ実行するかは、恣意的なものである。
 その日、五月二八日の出勤途上、渋谷駅のみどりの窓口に立ち寄った。週休二日制の普及で金曜日の夜行の寝台券は五月末の閑散期でも当日では入手しにくい列車が多い。私は申込用紙四枚に四方面の列車を記入して、短い行列のうしろに並んだ。
 順番がきて、まず上野発19時27分「津軽1号」の寝台をABいずれでも可、で申し込んだ。しかしABとも赤ランプがついていて不可。
津軽2号じゃだめなの」と窓口氏は言った。当然で親切な問いである。しかし2号では角館線に乗れなくなる。
 私は20時51分発福井行「越前」と記入した申込用紙をさしだした。能登線珠洲蛸島間三・七キロと富山港線の残存一・一キロをやろうと思ったのである。窓口氏はちょっと怪訝な顔をしたが、とにかくマルスに入れてくれた。しかしこれも赤ランプ。こんどは「北陸」や「能登」ではどうか、とは訊かなかった。
 後続の客に気がねしながら私は、19時50分発青森行「ゆうづる1号」、第二希望「ゆうづる2号」、乗継列車「おおぞら2号」東室蘭まで、と記入した三枚目をそっと出した。この指定券がとれると、北海道の残存一四線区のうち最長の瀬棚線四八・四キロをはじめ五線区を消化できる。ただし月曜日を休まねばならぬから、仕事のことが多少は気にかかるが、「ゆうづる」の1号2号は人気列車だからたぶん満員だろう。窓口氏は申込用紙を見て、はじめて私の方へ顔を向け、
「お客さん、いったいどこへ行きたいの」
と言った。この質問ははじめてではないが、やはりちょっとたじろぐ。しかし私は、
「いろいろ行きたいところがあるんで」
と答えた。我ながら簡にして要を得た答である。窓口氏は「これはないですよ」とつぶやきながら、それでもボタンを押してみてくれた。やはり満員の赤ランプがつくと、こんどは頼みもしないのに、慣れた手つきでグリーン車のボタンを押した。

  • 時刻表2万キロ(河出文庫)/宮脇 俊三 (著)

 

 名著である。
 そして、強い親近感を覚える。
 旅が生活を支配しはじめると同じようになるのだなあと思う。
 もっとも「旅が生活を支配」というのは、放浪生活ということじゃない。旅そのものが生活という状況ではなく、生活として住居や仕事や日常という根や幹があったうえで、ということだ。
(余談だけど、紀行文や紀行小説で、放浪旅よりも、ベースとなる生活ありきで最大限の旅をしているほうが面白く、引き込まれて読めるのは、そのほうが自身を投影しやすく実感が湧きやすいのと、ある程度の枠にはめられたなかでの旅のロジカルさを楽しめるからじゃないかと思う。放浪旅の紀行文はどうも自由すぎて、僕は読みどころをつかむのが上手くできないようだ)
 氏は鉄道旅であるがゆえ、天気はそれほど判断基準ではなく、目的地へ向かうための足が確保できるかが判断基準になる。具体的にはそこへ行くための列車の指定が取れるかどうか、だ。
 僕も自転車旅と同じくらい鉄道旅が好きなので、よくわかる。
 そして僕の場合は、それが週末の天気ということになる。

 

 

 こうしていったん用意した何の脈絡もない各方面のルートは、最終選択されたルート以外みな放置される。次の回以降でこれらの方面に出かけようかとなったときはあらためて引っ張り出すことがあるのだけど、なぜかそのたびに修正を加えてしまうことが多い。もともとそのルートを作るときでさえさんざん悩んで、何十分か一時間以上の時間をかけているのに、それに手を加えるのだ。
 どうも僕の性格的なものなんだろうけど。
 過去に作った自分のものを信用していないのか(というつもりはないのだけど)、最新の情報、最新の僕の感性・感覚で引き直したくなってしまうのか、わざわざ手を入れるのだ。
 いいものになるときもあるけれど、たいして変わりゃしないときのほうが多い。

 

 さあ、週末はどこへ出かけようか。