自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

信越本線・横軽の鉄路

 はじめて信越本線に乗り、横軽(横川-軽井沢駅間、碓氷峠越えの通称)を越えたのは、小学校高学年の頃だった。そしてはじめて国鉄特急に乗ったのもこのときだった。連休の家族旅行で、父の会社の保養所があった志賀高原を訪れるため、L特急あさまに乗って行った。おそらく出遅れて指定席を取り損ねてしまったのだろう、滅多に家族旅行など行けない家庭で、家族4人にグリーン車を奮発した。
 横川で、峠越えのための補助機関車を後部に連結する。その作業にかかわる長い停車時間で乗客はホームに降り、彼らをねらったおぎのやの立ち売りが、釜めしを売っていた。
 それを食べることがしきたりであるかのように、僕らもならって食べる。普通列車とは違う、特急列車の大きな窓の窓枠に置いたお茶は、その頃まだ白い半透明のポリ容器だった。キャップをお猪口に見立て、ちびりちびりとお茶を飲む。
 この家族旅行、帰りもL特急あさまだった。さすがに上りは指定席を押さえられたようで、普通車だった。軽井沢駅での補機連結作業中に、父が「台車の空気を抜くそうだ。トンネルが通れないからだ」というようなことをいった。それは空気ばね台車の空気を抜くというのは当たっていたが、目的がトンネルをくぐれないからというのははずれていた。鉄道にひとつも関心のない父だから仕方がない。じっさいこれは、連結器の座屈現象(急坂とそこでかける強烈なブレーキにより連結器に負荷がかかり、ポッキリ折れてしまう現象)の防止に効果的だからということを、かなりのちになってから知った。空気ばねの空気を抜かないとトンネルがくぐれないのなら、コイルばねの115系普通列車は、横軽を通れないことになってしまう。

 

 そんなエピソードがいろいろとあって、この旅がかなり印象に残ったのは事実だった。
 それからのちも、自分自身の旅で何度となく横軽を通過した。特急もあれば、普通列車もあった。たいていはしきたりを引き継ぐように、釜めしを買い、食べた。
 とはいえ、旅程を立てるときの難関でもあった。どうしたって時間のかかるこの区間は、行程での比重が高くなる。特急や急行であればもちろん他の路線を使うよりまだ早いけれど、普通列車は鈍速なうえ、本数も少なく、さらに苦労させられた。時間がキィになる旅は、信越本線を避ける行程にすることもあった。
 それでも、ここに出かければ楽しかった。
 横川や軽井沢での長時間停車も非日常的だったし、時速30キロ程度でじりじりと、速くも遅くもならずに走っていくのもまた一興だった。乗れば誰もがここだけは特別な視線を送っていたし、鉄道の関心などまったくない人でも、横軽だけは違って楽しんでいるように感じられた。

 

 

 この区間が廃止されて20年が経った。
 現在の北陸新幹線が長野まで部分開業した。ちょうど長野オリンピックの目前だった。それまで並行在来線が廃止されることなどなかったから、なくなるの? と驚いた。同時に並行在来線第三セクター化されるというのもはじめてで(軽井沢篠ノ井間の信越本線しなの鉄道へ)、これも合わせて驚いた。今後はこうなっていくんだろうか、とそのとき思った。
 とはいうものの、廃止にかんしていえば、旅程のバリエーションが減るということで残念ではあったけど、それ以上の感慨はあまりなかった。
 ──僕は鉄道はけっこう好きだけど、路線の改廃に感慨を持つことはないみたい。

 

 おととし、15年ぶりくらいだったろうか、鉄道文化むらに行った。
 できた当初に行って以来だった。空いていた。当初の盛況はなかった。同業の、鉄道博物館のようなにぎわいはみじんもなかった。機関車や客車たちはずいぶんくたびれていて、塗装は剥げ、車体全体が水あかで白くくすんでいた。資料館のジオラマは古く、今はない列車やブルートレインが、今もあるがとごくふつうに解説され、走っていた。時代が、横軽からもう進んでしまっていることを、このとき感じた。

 

 横軽が分断されて、20年。
 県道56号を自転車で走って、かつての信越本線がそこに残されていることを知った。サイクリングの目的は、信越本線とはかかわらないものだったけど、ふと自転車を止め、勝手ながら路盤へ続く狭い階段を上ってみた。

 

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