自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

足柄峠/とことん外れの天気予報(Mar-2018)

 上りつめたそこからは遠望どころかセンターライン3本分くらいしか視界が効かなくて、もちろん凍えそうに寒くて、天気の悪さゆえ一度も写真を撮ることなく来たここまでで初めて、この光景をカメラに収めたら、そのあいだにも立ちこめた霧がどんどん濃くなっていった。10メートル先に置いていた僕の自転車が、薄ぼんやりと白く包まれ、隠れていく。足柄峠城址公園の階段を下りてきた中年ふたりは夫婦だろうか、こんにちはといってみたが返事がない。そのまま背を向けて歩いて行った。何もかもが実体を失っていくような気がした。長居している場合じゃないや、と僕は自転車に駆け寄り、ここからの下りに向けて、ウィンドブレーカーを着こんだ。




 足柄峠は、静岡県と神奈川県との県境にあり、箱根金時山から連なる尾根の北に位置する。古代から官道として利用され、江戸時代に箱根越えの東海道が整備されたのちも脇往還となり、勾配のゆるい峠越えが好まれ、栄えたそうだ。

 もっとも僕は、あまりに有名な観光地である箱根の陰に隠れて、この峠の存在を知らなかった。当然、脇往還矢倉沢往還)の存在も知らなかった。知ったのはおそらく10年ほど前だし、じっさいに足を運んだのは昨年、尺里峠を訪ねた続きとしてだ(→そのときの記事)。


 この週末は、週明けの週間予報からずっと良くなくて、もともと期待していなかった。何をしようかという当てもまったくなかった。だから木曜日の夜の週間予報で晴れマークを確認したときは、予想していなかった天気に驚きもしたけど、あわてて自転車に乗ろうと切り替えてもいいコースはひねり出せないだろうと、手もとの18きっぷは温存することにした。まだ北方への意識が向かない季節、箱根や足柄方面に思いを巡らせて、朝の小田急線に乗った。


 そもそも朝からおかしかった。

 直前に出た時間別予報は、金曜日の雨には夜には上がり、土曜日は朝から晴れるとなっていた。気温も13、4度まで上がる。春が来る、と僕は喜び、真冬より一枚少ない服装、シューズカバーも省いた。朝方は気温も低いだろうから、そこだけ我慢。あとは好天に恵まれたサイクリングになるって期待があった。

 それなのに早朝の路面はしっとり濡れていた。明らかについさっきまで降っていた、というか、走り出してみるとまだ小雨が残っていた。短い距離なら服が濡れるほどではないけど、あれ、予報はいったいどうなっているんだ?ってよぎった。

 新宿駅を出発した急行電車からも、窓の外にはどんよりした雲が見えた。曇天のもと、薄暗いし、扉が開くたびに入り込む風は震えるほど寒かった。僕はスマートフォンで天気予報を確認する。しかし前夜見た、朝の7時からその先に並ぶ晴れマークは変わっていない。──ちっとも、晴れていない。

 新百合ヶ丘、町田、相模大野、……先頭車両に陣取る輪行氏は僕を含め3人。ちっとも雲のはけるようすがない空を、それぞれが見ている。海老名を出て、相模川の鉄橋を越えるとき、運転士の前のワイパーが一度、動いた。


 僕はこの日、ふたつのルートをガーミンに入れていた。ひとつは新松田から酒匂川沿いを遡上し、静岡県側から足柄峠を越えて戻ってくるルート。もうひとつは小田原から旧街道で箱根へ上り、大観山をへて湯河原へ下って海沿いから戻るルート。いずれもこの電車に揺られていればいい。足柄なら新松田、箱根なら小田原で降りる。

 伊勢原で、輪行氏ひとりが降りた。

 小田原行きの急行は先へ進む。

 運転士のワイパーが、速くなった。

 ワイパーをかけていない右側の窓は、水滴がにじんで前方を望めないほどになっていた。

 ──うそでしょうに。

 と、ぼくは心中でつぶやき、また天気予報を見る。予報は変わらない。晴れマークが並んでいるだけだ。そこで雨雲レーダーを見てみた。すると、箱根、足柄、御殿場から松田、秦野といったあたりに雨雲がかかっている。おいおいって思う。でもその予想を進めてみると、30分もすれば雲が晴れる。北の駿河小山、山北、松田、秦野といったあたりが先に晴れ、箱根や湯河原、小田原には若干残るように見られた。

 ──新松田で降りて、足柄へ行くか。

 そういう判断になった。

 渋沢を出て、急行はトンネルをくぐる。出ると、窓に雨が当たって、さささささって音を立てる。離れた席の輪行氏が、なにか口に出していった。「どうすりゃいいんだ」って、いったように聞こえた。本当、口に出したくなるような空模様、天気予報の外れだった。

 新松田で僕は降りた。もうひとりの輪行氏は降りなかった。次は終点の小田原だから、箱根に行くんだろうか。あるいは海岸線で熱海、伊豆を目指すのか。輪行氏を残した急行がホームから出ていくと、僕はポツンと残された。雨が、とつとつとつ、と静かな音を立てて落ちていた。


 ホームにあるガラス張りの待合室に、もう40分もいる。ゆるいけど暖房が効いていて、空模様ばかり眺めている。5分おきの予測状況が見られる雨雲レーダーは、10分後には雲が晴れるといっているのに、10分たったあとに見た情報は、単に10分前に見た情報が後ろにずれているだけだった。そのたびに10分後には雲が晴れるようすを示す。一時間ごとの天気予報といえば、相変わらず7時からの先は晴れマークが続いているだけで、もう見ないことにした。次に入ってくる電車がワイパーを止めていたら出よう、踏切を渡っている人が傘を差していなかったら出ようって思うのに、来る電車来る電車のワイパーは動いていて、踏切を渡る人の傘は花を咲かせていた。いったい何をしに来たのだろう。輪行袋を脇に置いて待合室から動けない自分の姿が、やけにみじめだった。


 自転車を組み上げても雨滴は飽きもせず落ちてくる。待合室を出て、改札口を出てきたのは雨が上がったからじゃなくて、何しに来たのかわからなくなって、哀しくなったからだ。

 足柄峠のルートは前半、御殿場線にも沿っている。雨がやまず、走ることがままならないようなら御殿場線に乗っちゃえばいい、って思ったから。ちょっとでも走って、これは無理だからあきらめましたっていえば大義が立つ。誰が問いただすわけじゃないけど、なぜか言い訳なんか考えた。気弱で、おかしい。



 雨は、走り出してみれば濡れるほどではなかった。早朝の雨と同じ程度だった。おそれていた国道246号の轍掘れや、大型車の泥はねは、全然ない。さすがの主要国道は、路面の改善工事を定期的にやっているのかもしれない。むしろ国道246号から離れて入った県道のほうが、水たまりが多い。水はけも悪い。

 でもこの空模様ゆえなのか、国道はともかく県道に入ると車もほとんど来ず、きわめて静かだった。泥色をした水がねじり合う複数の蛇のように、濁流となって流れている酒匂川も興味深かった。災害ではないにせよ平時とは違う川の流れに興味というか情緒というか、そんなものを感じるのはどこかずれているかもしれないけど、でもじっさい惹きつけるなにかがあった。僕は濁流に逆らって、上流へと進む。

 そんな光景が、山北から谷峨にかけて続いた。濁流の上にくすんだ緑色のガーダー橋がかかっている。御殿場線の線路だ。悪くない絵だなって思う。ほんのり白く煙っていて、全体の光景も引き立てている。

 県道は、大きく上って国道246号の上を越え、御殿場線も越えて谷峨の駅の上に出た。谷峨の駅が俯瞰できるそこから、御殿場線の2両編成の313系が止まっているのが見えた。偶然のタイミング。なんていい光景だろう。なにもかも濡れた感じの絵がいい。でも写真に収めることができない。僕はカメラをフロントバッグの奥にしまっていた。濡れないよう、ジプロックにくるみ、底のほうへ入れてしまった。一日じゅうもう出すこともないだろうって思ったから。仮に雨が上がっても、車やバイク、あるいは自分自身のタイヤからの水はねがあることを考えると、出せる機会はないだろう。だから、今日は写真がない。この御殿場線の2両編成も、ただ見送るしかない。


 谷峨から駿河小山のあいだが神奈川・静岡県境になる。この区間は並行する道路がなく、国道246号を走らなきゃならない。橋もあるしトンネルもある。けど、走りにくいってこともない。路肩が広かったり、ゼブラゾーンがあったり、逃げ場が多いし、おまけにこの日、全体的に交通量が少ないようにも思えた。

 県境を越えて、国道を離れ、御殿場線の踏切を渡ると駿河小山駅。

 小雨は、上がったみたい。

 僕は駅のトイレを借りた。ひと休み、温かい缶コーヒーを買った。

 しかしひと気がない。自転車をラックにかけさせてもらった駅前のサイクルステーションも、カーテンを引いて閉まってる。隣の観光案内所も同様に閉まってる。どっちも今日だけやってないのか、もうやめてしまったのかさえわからない。缶コーヒーを片手に、手持ちのパンを口に入れ、周囲を眺める。本当に寂しい。駅のロータリーにはタクシーが1台と、そこへ富士急のバスが1台入ってきたけど、どちらも客がいない。サイクルステーションでの休憩で、そこに僕より少し遅い自転車女子が現れて、少し鼻にかかった高めの声で、よかったら一緒に足柄峠へ行きません? って声をかけてくる妄想を、期待値高めにしたのだけど、そんなことあるはずもなかった。向こうからさらにもう1台、富士急バスがやってくるのが見える。どうせこれだってひとりの客さえいないんだ。ここは、誰も、いない。


 駿河小山駅から先は徐々に上りが始まる。次の足柄駅に向かって上るのだ。もっとも山北駅が標高約110メートルで、足柄駅が約330メートルだから、ずっと上っては来ていたのだ。県道で曲がりくねった道を来たから勾配はゆるかったのかもしれないけど。ここからは坂らしい坂になる。

 前回上った県道365号、金太郎ふじみラインを左に見送った。今日は足柄駅から山に分け入る、県道78号で上って行こうと思う。

 途中、鮎沢川を渡った。見事な水流だった。もちろんここも濁流。濁流を見て見事だと思うなんて、心が濁っている。まあ酒匂川が静岡県に入って鮎沢川という名になるのだから、濁流であることは変わらないんだろう。

 ここの区間だけ、国道246号が遠く離れている。するとどうだろう、風景は途端、山あいの村の色に変わった。御殿場線も、東名高速も、こっち側を通っているというのに、国道一本、街全体を引きずり持っていったよう。遠い向こう、谷地に工場や流通系の大きな建物が見える。そんなもんだ。高速道路もインターチェンジがあるならともかく、ただの通過地点であれば、そこはなんの発展もない。御殿場線はいわずもがな。2両編成のワンマン運転が主流の沿線に、大きな発展はない。かつては燕、櫻がC62に牽かれて疾走していたんだって懐かしむけど、僕はその時代を知らない。二本並んだトンネルの、片側のレールが剥がされた光景に、東海道本線だった時代を無理に想像するくらいしか、できない。

 山村は、ちいさな畑ばかり点在し、家々もそんなに多くない。

 もう一度鮎沢川を渡ると、足柄の駅が見えた。

 ──足柄駅から新松田-松田乗り換えで足柄駅までの定期券って作れるんだろうか。

 などとくだらないことを考える。前者の足柄駅は、神奈川県にある小田急小田原線の駅だ。できあがったなら「足柄(小田急)-足柄(御殿場) 経由:新松田、松田」などと表記されるんだろうか。



 県道78号。これを上る。足柄駅の踏切を過ぎれば上り続ける。道はすぐに杉木立か、針葉樹林のなかに入った。センターラインはない。一時的なものかと思ったが、ずっと同様の幅員で続く。県道番号2桁は、主要地方道のはず。路線名は御殿場大井線。大井は神奈川県の大井町で、神奈川県側も同じ県道番号を使用している。しかしなんだこの格下、林道レベルの道路は。

 でもこれは、自転車で行く僕にとってありがたいことこのうえない。車の通行がほとんどないからだ。針葉樹林のなかを進む眺望のなさは好き嫌いがあるかもしれないけど、悪くない。ただ、巨大な富士山を正面から望みたくて来たのだったら、裏切られたと悔むんだろう。もう一本の道路、県道365号金太郎ふじみラインからの富士山眺望は壮大だから。

 おそらくこの県道78号は、かつてからの足柄街道、矢倉沢往還を踏襲して造られたのだろう。しかしながら静岡県側が狭隘道路を改修できず、う回路としての県道365号を高規格道路として造ったんじゃないだろうか。あるいは沿道にあるゴルフ場の、見えない力が働いたか。

 ともかく、今は役割もほぼ担っていない静岡県道78号は、主要地方道のまま君臨し続けている。仕事はないが、地位と役職と、声だけは大きい大御所みたいな位置づけだ。

 しかしおかしい。昨年県道365号から上ったとき、その急勾配に苦しめられたのだ。なのにこちらはゆるい。県道365号を思い出すと、いつかガツンと現れるんじゃないかと、つい構える。

 暑くなってきたので、出発からずっと着ていたウィンドブレーカーをここで脱いだ。とはいえ、天気が良くなってきたわけじゃない。変わらぬ重々しい雲だ。ただ単に上りで暑くなったというだけだ。


 左手から県道365号が合流した。

 結局、ガツンとはこなかった。途中、急な斜度のS字が一度現れたけど、その部分何百メートルくらいで、他はきついということはなかった。県道365号に対し、県道78号が大きく回り込むつづら折りで、距離を長く取って標高を稼いでいるんだろう。

 県道365号を吸収すると、県道78号の名のままに、道路は県道365号の高規格になった。二車線、ときおり分離帯もある幅員の広い道路は、部下の研究成果を自らの名で発表して手柄を得る、プロジェクト・リーダーを想像させた。

 県道365号と合流してから1キロで県境。そこが足柄峠


 合流までの県道78号、いい道だった。ずっと林のなかではあるのだけど、こういう道は好きだ。走っていて楽しいし、走り続けていたくなる。あえていうなら、針葉樹林より広葉樹林のほうが好きだ。

 県道365号と比較するとなると、悩んでしまう。富士山の大絶景が、絶え間なく続く県道365号は、眺望道路の王道ともいえる。でも、木立のなかを延々と進む道路っていうのも捨てがたい。

 この日のような雨もまじる曇天模様の日は、富士山を期待できないから、県道78号がいいのかもしれない。でも、晴天のもとの木もれ日が差す木立の道も、嫌いじゃない。


 峠に着くと、もやが立っていた。ほのかに白く、僕を包む。そして、立ち止っているとそれが秒単位で濃く変わっていくのがわかった。もはや霧であり、気象的にいうなら濃霧だ。ここはちょうど雲のなかなんだ。そして、とんでもなく、寒い。



 足柄峠からの下り、指先が凍えて感覚があやしくなった。神奈川県側の県道78号は、勾配がつねに10%を越えている激坂で、ブレーキの手を休める暇がない。おまけに、雨だ。降っているし、路面もしっかり濡れている。神奈川県でも登坂のメッカと聞くけれど、ひとりもすれ違わない。昨年は、何人かのロードバイクにすれ違ったのに。

 寒くて、いられない。ウィンドブレーカーは着ているものの、それ以外が雨で濡れてきている。下りは、発熱する要素がない。

 なにか食べよう。

 坂の中腹にある、万葉うどんに駆け込んだ。混んでいた。自転車はおらず、バイクもひと組。あとは車。そういう日だ。冷え切っている。

 ありがたいことに、そう待つことなく席につけた。──カレーうどん、お願いします。

 ストーブに近い席で、少し回復した。うどんを待ちながら、スマートフォン南足柄市の今日の天気を見てみた。

 朝の7時以降、晴れマークが並んでいた。松田町も、山北町も、開成町も、みんな同じ天気。

 ──外れだよね?


 開成町まで一気に下り、酒匂川を渡って松田町へ。新松田の駅が近づいてきた。町には車があふれていた。仕事の車ばかりじゃない。みな、春に呼ばれて出てきたのだろうか。空は、晴れていた。


(本日のルート)

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