自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

三重県私鉄、ナローゲージの旅(Jan-2018)

 ナローゲージには馴染みがない。

 関東でナローゲージを採用している鉄道はないし、残念ながら僕の記憶にもない。ナローゲージを採用していた記録を見返しても、湘南軌道(秦野-二宮)や九十九里鉄道(東金-上総片貝)など、僕の知らない鉄道路線九十九里鉄道はバス会社として残っているけれど、鉄道というだけに鉄道事業があったんだと言ってみれば当たり前の納得をする。

 北軽井沢に保存されているかつての草軽電鉄がナローゲージで、現在はレールと走っていた豆機関車を実物大で復元したモックアップが駅舎前に設置されているが、見慣れないぶん遊園地の豆汽車大に映る。

 だからこの軌間の上を“ちゃんとした”鉄道車両が走っていること自体が、僕にとって新鮮で、そのくせ馴染みもないのに懐かしい存在だった。

 このナローゲージの鉄道に乗る。

 

 脚のむくみや疲れ、いろんな関節の痛みや乗り物酔いも含めて、眠れないことの不安を3分の2と、やっぱり旅に出るムードを高めてくれる非日常性を3分の1ばかりかかえて乗ったバスは、意外にも快適だった。上手く体を動かしながら寝ていたからなのか脚がむくむこともなく、用心のために飲んでいた酔い止めが効いたのか眠ることもできた。もっともサービス・エリアでの休憩中に開けられたバスの扉から流れ込んでくる強烈な冷気で何度も目を覚ましたから、ぐっすり眠れていたかというと怪しくもあるけれど。

 名古屋には定刻の10分前くらいに着いた。VIPライナーは発着地各所にラウンジを設けているようで、ショルダーバッグひとつの僕は荷物を待つ必要もないのでそのままラウンジに立ち寄ってみた。休憩とティーサーバとトイレを備えたラウンジではすでに先についた便の乗客が泥のように残っていた。僕はティーサーバでコーヒーをもらい、ひとつの椅子を確保して手荷物のなかを整理したり上着を着なおしたりした。泥のような先客は疲労度がひどい。よほど寝られなかったのだろうか。椅子に座りコーヒーを飲んでいると、大きな荷物を受け取った同じ便の乗客たちが続々と入ってきた。

 椅子は限られた数しかないうえ、先客がそれらを占拠しているから、新たに入っていた客たちはあてどもなく立っているしかなく、トイレに行列を作り、ティーサーバに行列を作るくらいしか居場所がなかった。僕はこの場が雑然とする前に、ラウンジをあとにした。

 

 まだ外は暗い。おとといがスーパームーンだったという月が大きく明るく西の空にいる。始発前の大都市の駅にやってきてしまったような錯覚を覚えるけれど、もう7時になろうとしている。改札口で18きっぷに入鋏してもらった。

 関西本線の亀山行きは704発。バスが早く着いてくれたおかげで時間もできたので、ホーム上のきしめんでも食べようかと思った。関西本線のホームにあるものかわからなかったので、東海道線のホームに上がってみた。しかしながらまだ早かったみたい。明かりはついているものの店は開いていない。ああこれは7時からなのだろうなと納得し、あきらめた。手持ちのパンなどもあるのでそのまま亀山行きを待つことにした。ホームへ上がると乗車位置ごとにそこそこの列ができている。まだ15分ちかくあるけど、みんな待っているのだ。スーツ姿も多い。そういや今日は、世は仕事始めだ。

 50分ほど乗って、亀山行きの列車を河原田駅で降りた。関西本線のホームとは別に、築堤の上に伊勢鉄道のホームがある。吹きっさらしのなか列車を待っている人がいて、そこを気動車の快速みえが高速で駆け抜けていった。

 

 

 三重県私鉄のスタートは四日市あすなろう鉄道の内部線。早速のナローゲージだ。河原田駅から内部駅までは30分程度で歩けるだろうと踏んだ。内部線の時間まで40分ほどある。早めに着いてそのマッチ箱のような狭い電車をゆっくり眺めようと思う。

 歩いていると寒さが痛いほどに感じられる。朝の8時じゃまだ日も昇っていないから、太陽の恩恵はない。歩いている県道沿いでファミリーマートを見つけたので、立ち寄ってホットコーヒーを買った。今日最初のドリップコーヒー。ほかに何か買おうかと店のなかを見て回ったけど、特に欲しいものもないのでコーヒーだけを買って出た。

 ちいさな架線柱の隊列が見えた。左手には川の土手がありその手前に駅がある。ファミリーマートに寄ったぶん時間を使ってしまったけれど、大丈夫。架線柱をたどっていくか川沿いに出るかすれば駅だ。

 しかし正面に巨大なスーパーマーケットが横たわっていて、この右を行くか左に回るかで悩んだ。右は架線柱沿いに歩くルート、左は川沿いのルート、僕は近そうな左を選んだ。が、このルートを断たれてしまう。川沿いの道へと出ることができなかった。どこかの会社の社宅の駐車場のようなところに迷い込み、出口が見つけられず、それでも突破を試みようとするが腕時計を見るともう発車まで5分を切っている。リスクを取るより安定をと一度巨大スーパーの前に戻り、右ルートへ進路を取りなおす。走った。空になったファミリーマートのコーヒーカップを片手に走る。線路が見え、その終端にマッチ箱電車が止まっている。あと3分。駅舎へはここから川沿いへ回り込まないといけない。走った。

 1分前、いやもう1分なかったかもしれないけど、出札口でフリーパスはありますかと聞く。はい550円ね、僕は小銭を探していると、乗るの? と聞かれる。目の前で発車を待つ列車のことだ。乗りたいです、と僕は答える。結局小銭はなく不運にも5千円札。お釣りを用意し、フリーパスに日付印を押し、僕はそれらを受け取ってホームの列車へ乗った。明らかに、待ってもらってしまった。

 

 ちいさなマッチ箱電車を楽しむ時間もなく、僕は座席のひとつに座った。今やこれさえ懐かしい片開き扉が閉まった。

 釣りかけモーターの懐かしい音が響く。

 四日市の住宅街をゆく。後方には遊園地の豆汽車のような線路が遠ざかっていく。

 少し走ると駅に着く。また釣りかけモーターを響かせて走る。また駅に着く。これを繰り返していく。

 ひと駅止まるごとに乗客が乗りこんでくる。内部駅では数えるほどだった乗客が、どんどん増える。やがて座席の半数以上が埋まり、立ったままの乗客も出た。

 列車は日永駅に着いた。

 僕は内部線から八王子線に乗り換えるため、ここで降りる。

 降りてからはじめて、まじまじと車両を見る。淡いオレンジ、淡いグリーン、淡いオレンジの車両の3両編成で、グリーンの車両には窓枠の上下に懐かしいウィンドウ・シル、ウィンドウ・ヘッダと呼ばれる補強板が施されていた。

 僕が2年前に、踏切や駅の改札の外から見たホームに今立っている。そして扇状のホームの反対側に、狭い軌間のうえをごとごとと、これから乗るべき西日野行きの列車が入ってきた。グリーンと白のツートンカラーの電車。

 

 日永から西日野へはひと駅。住宅と畑のあいだをごとごとと走る。そこそこ駅間が長くって、釣りかけを全開で回しながら走っている。けたたましい音はかつて東武線の準急電車として走っていた7800系を思い出した。時速90キロ前後でのその走行はモーター音に無理を覚え、板バネ台車独特の大きな揺れをともなっていたことを。でも四日市あすなろう鉄道のこの電車は音こそ全開モードながら速度はやっとこさ時速40キロだった。思い出した東武線7800系のような揺れがないのは、速度が低いせいと台車がコイルバネだからだろうか。

 西日野で一度駅の外に出てみた。変わらぬ景色の住宅街と畑のなかの小ぶりな駅は、これまた歩いてきていたなら見つけるのに難儀しそうな、埋もれてしまっている小さな駅だった。駅舎だけ大雑把に眺めると、すぐにホームに止まっている列車に戻った。本当は乗ってきた列車でピストンすることは好まないんだけど、今回はこんな行程になってしまった。この先もそう。失敗したかなと思う。

 折り返しの四日市行きで、こんどはそのまま四日市まで乗り通す。ひと駅目がさっき内部線から乗り換えた日永駅で、今度はブルーと白の内部行き電車とすれ違った。大きくカーブして内部線の直線線路に侵入すると、まっすぐ四日市へ向かう。住宅と畑の割合がぐんと住宅に傾く。列車はビルか高架線の一角をくりぬいたような、終着四日市駅に着いた。常総線取手駅みたいだ。

 

 連絡通路を歩いて近鉄四日市の駅へ。ここは大きな駅ビルだ。改札のなかの発車案内を見ると『パタパタ』式で、いわゆるザ・ベストテンの順位ボードみたいなやつだ。かつては東武線の北千住駅もこれだったし、東海道新幹線もこれだった。

 これから乗る近鉄湯の山線の発車まで20分弱。駅のコンコースに駅そばがあった。しかもこの時間、かけが200円で食べられるらしい。それほど空腹でもないけれど入る。ここはどっちだ? 関西か、関東か。「うどんにします? そばにします?」食券を出すとそう問われる。「そばでお願いします」とっさ、僕はそう答えた。うどんの地や店でない限りそばを選んでしまう僕なのだが、出てきたつゆは関西風、澄んでいた。しまったと思う。これはうどんだった。このつゆにそばは、残念だけどあわない。

 

 近鉄湯の山線はここ四日市から西の御在所山のふもとにある湯の山温泉を目指す路線。御在所山を越えるとそこは滋賀県。今回出発の直前にはじめて知った路線であり、地図を見て初めてわかった位置関係だった。

 また例によって列車のいちばん後ろに陣取る。この路線もワンマン運転だった。

 発車しすぐにカーブして近鉄名古屋線から離れていく。後方に流れていく線路は標準軌。1435ミリのレール幅はこれまた逆に関東では馴染みが薄い。ナローゲージの762ミリから見ると倍近いその軌間がやたらだだっ広く映る。

 湯の山温泉駅に近づくと、道床は雪に埋まっていた。驚きである。港湾工業都市四日市からわずか30分、海からこれだけ近い場所で道床が雪に埋もれた線路を見るとは想像していなかったから。想定外の積雪があったとは耳にしていないし、日常的なのだろうか。県境に近い高い山のふもとだから不思議じゃないと言えばそうかもしれない。

 終点湯の山温泉駅で改札を出る。近鉄四日市駅で関東私鉄のICカード、PASMOで入ったのでタッチ機に触れて外に出る。でも乗ってきたこの電車で折り返さないといけないので、駅前のようすを眺めるくらいしかできない。上手く詰め込んだと言えばそうだけど、楽しみのない行程だったかもしれない。

 駅前ではバスが1台待っている。しかし改札を出たのは僕と、ちいさな男の子ふたりの手を引いたお母さんの三人だけだ。列車から降りた乗客を湯の山温泉へ運ぶバスだろうか。下車客は誰も乗らない。このバスは誰を乗せ、いつ発車するのだろう。

 駅前売店って名の商店がいい。

 

 あわただしい。

 乗ってきた湯の山線の電車でそのまま四日市へ戻った僕は、次に三岐鉄道三岐線に乗るため、近鉄富田に移動する。近鉄四日市駅での接続時間は3分。しかしながら湯の山線近鉄四日市に近づくにつれ混雑を増し、終着前には立ち客もびっしりになった。列車は変わらずワンマン運転で、それが前提の地方私鉄や三セクだと運転席にドアスイッチがあって、ミラーや映像を見ながら開閉をするけれど、大きな鉄道のローカル線だと、車掌が使うドアスイッチでドアを開閉する。運転士は駅に着くと全ブレーキを込め、席を立って椅子をたたみ、車掌と同じスタイルで乗務員室窓から顔を出してドア開閉を行う。東武線もこのスタイルだけど近鉄湯の山線も同様だった。そういえば四日市あすなろう鉄道もそうだった。このスタイルはどうしたって列車が遅れやすい。結果、1分遅れで近鉄四日市に着いた。僕の持ち時間は2分。

 近鉄名古屋線はひとつ隣のホームで、階段を使って移動するのだけど、僕が乗った場所は階段から最も遠い車両だった。みんな四日市に用があるだけなのか、名古屋方面に行くわけじゃないのか、隣のホームから名古屋行き急行──近鉄のこの、行き先/種別の順でいう言い方が好きだ、たまに聞くからだけど──がまいりますと自動放送が聞こえてくる。しかし湯の山線ホームの乗客は階段へ急ぐようすがない。──これやばいんじゃない? 僕はあせって人をかき分けるように階段を駆け下り、ひとつホームを跨いだ。階段を駆け上がると名古屋行き急行はすでに扉を開けて発車を待っていた。

 

 近鉄富田駅での乗り継ぎも3分だった。

 ここで近鉄から三岐鉄道への乗り換えがどういう構造になっているのかよくわからないし、三岐鉄道の一日乗車券も買う必要があった。最悪車内でも買えるのだろうか。

 名古屋行き急行は湯の山線の玉突き遅延なのか1分遅れて近鉄富田に着いた。かつて西武を走っていた車両に黄色とオレンジの塗装を施した三岐鉄道がホームの向かいに止まっている。ありがたい構造だけど、ここや車内じゃどう見ても一日乗車券は手に入れられないようす。扉が開くと改札口への階段を駆け下りた。いい場所に乗っていた。階段が近かった。下りると西口と東口があるのがわかる。時間のないなかで選択を迫られるアドベンチャーゲームでもやっているようだ。西口を選んで走る。三岐線のホームが西口側だったから。自動改札にPASMOをタッチした。

 三岐鉄道の出札窓口で一日乗車券が欲しいと告げた。1,100円。現金を出し、日付印を押したものを受け取り、いちばん端の改札を通ってくれと言われる。それにしたがって急いで抜ける。自動改札機ながらゲートが閉じることはない。

 待っていた西藤原行きに乗る。二枚窓の顔は751系、かつての西武新101系だ。

 

 

 三岐鉄道三岐線は日本で唯一残るセメント輸送を行っている鉄道会社だそうだ。かつては西武や秩父鉄道もその役割を担っていた。だから乗っていると同じような雰囲気を受ける。

 数駅進んでの対向列車待ちは電気機関車の引く貨物だった。セメント用のタンク車を引く機関車の光景が違和感なく映った。

 山が近づいてくる。

 大きなヤードを備えた駅が増える。というより、ヤードのある場所に駅も造りました、という印象である。

 山には雪がかぶっていた。湯の山温泉では線路に雪があったくらいだからそれはそうなのかもしれない。山の形、山の削られ方が埼玉県の武甲山そっくりの山があった。きっとこれがセメント山なのだろう。なんだかずいぶん遠くまで気がした。同じ車両に乗っていたおばさんと若い女の子はいつの間にかいなくなっていた。列車は新たな乗客を乗せることなく、終着西藤原へ向かった。

 終着に着くと、湯の山温泉に着いたときと同じように強烈な寒さがまとわりついてきた。痛く刺してくるような冷気のなか、一度改札を外に出てみる。機関車を模した駅舎は栃木県の真岡鉄道真岡駅みたいだ。でもこの路線にSL列車など走るんだろうか。真岡鉄道は走っているけれど。駅舎にはC11-1の銘板がついている。

 またここも乗ってきた列車で折り返す行程。ただ9分の時間があるから少し歩き回ってみた。まあ9分しかないと言えばそうだけど、これまでの3分とか5分とか言った折り返しよりは余裕がある。

 

 乗ってきた列車に再び乗って折り返した。

 富田という都市から徐々に抜け出し、セメントで成り立つ路線を実感させる風景の変化は楽しかった。

 でもこのまま近鉄富田まで折り返すわけじゃなく、三つ目の伊勢治田(いせはった)駅で降りる。そこから三岐鉄道もうひとつの路線、北勢線の終着阿下喜駅まで歩くのだ。

 何本もの線路を有する大きなヤードの一角に、おそらく昔からまったく変わることなく存在している伊勢治田駅のホームに降りた。駅前の踏切で線路を横切り、おおよそここから20分、北勢線阿下喜駅に向かう。北勢線の列車はおよそ1時間後、今度はかなりの余裕がある。

 地図で見ると割と近い場所にある伊勢治田駅阿下喜駅だけど、歩いてみるとぐんぐん坂を下っていく。大きな国道を横切り川を渡る。員弁川と書いてあり、いなべがわとふりがなが振ってあった。ここは三重県いなべ市だが、いなべとはこういう字を書くのかと納得する。これは読めんわ、市名をひらがなにするのも仕方がないか。そしてその川の橋から見ると、かなり高い場所に工場設備とそのパイプライン群が見えた。おそらくさっき見た三岐線東藤原駅近くで見たセメント工場に違いない。岳南電車のように工場のすき間を抜けるような線路は、あんなに高いところを通っていたのか。

 こちらは予定どおり20分で歩くことができたので、40分近い待ち時間がある。もうホームに列車は入っていた。駅前のコンビニでお菓子とコーヒーを買い、駅の待合室に腰を下ろしたが、寒いので駅員にもう入っていいですかと聞くとかまわないとのことなので、一日乗車券を見せ、ナローゲージを走る電車の狭い車内に入った。ひだまりのなかで止まっている車両は、日を受けてポカポカと暖かかった。

 

 定刻に発車するとまた釣りかけモーターの甲高い音が響いた。おそらくナローゲージの宿命なのだろう、そう速いスピードを出すことはできない。ゆっくり、車体をゆすりながら走っていく。

 北勢線沿線には鉄道写真を撮るのに好適な、めがね橋とねじれ橋という場所があると聞く。しかしながら乗っているだけではその場所はわからなかった。外から眺めて、橋を渡る車両がいい絵になるのであって、乗っていては橋のようすも車両のようすも、見ることができない。

 日を受けた車内は心地よく、懐かしい釣りかけモーターの音と列車の揺れが眠りに誘う。あるいは昨夜バスに乗る前に飲んだ酔い止め薬の作用かもしれない。あるいは夜行バスで実は眠れてはいないのだというシンプルな理由かもしれない。僕はいつの間にか眠っていて、覚めて目を開けたときには狭いナローゲージの車内がいっぱいになっていた。

 

 

 三岐鉄道北勢線の起点、西桑名駅は駅名こそ違うけど桑名駅の駅前ロータリーの一角にある。ロータリーをまわって階段を上がるとそこは桑名駅。JRと近鉄と、そしてこれから乗る養老鉄道の共用駅で駅はかなり大きい。

 改札は自動改札でJRと近鉄のきっぷ売り場が左右に分かれてある。TOICAで入れる自動改札だからPASMOも使えるのだろうけど、それが養老鉄道でも使えるのかどうかがわからない。近鉄養老鉄道を兼ねているように見える出札口で聞いてみると、養老鉄道はきっぷのみだと言われた。近鉄の券売機とはまた別に、隅に追いやられるように置かれた養老鉄道の券売機を見つけ、そこで大垣までのきっぷを買った。

 さあ今日最後の鉄道──。

 

 養老鉄道近鉄グループの一員で、かつては近鉄養老線だった。だから車両は近鉄の車両だし、塗装は昔近鉄がそうであった、近鉄マルーンの一色塗装だ。

 ただ、軌間はJRなんかと同じ狭軌で1067ミリ。ということはこの桑名駅標準軌を採用している近鉄との乗り入れをしたり車両の融通をしたりといったことはできないんだろう。近鉄は、南大阪線吉野線狭軌を採用しているから、きっと車両はそれらと同じ車両なんだろう。

 養老鉄道木曽三川のひとつ、揖斐川に沿って北上する。近鉄名古屋線から派生する鉄道がみな山あいに向かって上っているので、ここも同じように山越えでもするのかと思ったら、養老山地の東側をすり抜けていて、等高線を大きく越えることもない。ならば上手く平野部を抜ける線形を生かして三重と岐阜を結ぶバイパス路線として機能しているのかと思いきや、ウェブの乗換案内なんかで桑名から大垣と検索すると名古屋回りがトップに出てきたりする。本数も少なくスピードも速くない。きっとその程度のローカル線なのだ。

 桑名駅に待機していた列車に乗って20分、ようやく出発した。

 

 また眠る。

 よく眠る。薬かバスか、日の当たる車内のポカポカが眠気を誘う。駅に止まると目を開き、そのたびの断片的な記憶は残るものの、走っているあいだの路線風景はもう記憶にない。同じような風景のなか、淡々とときを刻むように同じように走り、やがて気づけば大垣の街に入っていた。

 松尾芭蕉奥の細道の結びの地として選んだ大垣。病に苦しみ曽良とも別れ、記録も少ない終盤から大垣にかけて、僕は眠気に襲われほぼ全線を寝て過ごしたゆえ記録が少ない。同じようなものでいいじゃないか。

 大きな駅のはずれ──国鉄時代、大垣駅は巨大ターミナルだった──に桑名からの線路と揖斐からの線路がスイッチバックで入ってくる。終端式の構造のプラットホームにゆっくり侵入し、僕の今回の旅も終わる。養老鉄道の改札口を抜け、大きな駅ビルを要するJR大垣駅の階段を上った。あとは一直線に乗り継ぎを繰り返し、帰るのみ。朝、名古屋駅で入鋏した18きっぷを見せ、東海道線のホームに下りると、もうずいぶん日が傾いていることに気づいた。