自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

富士スバルライン(Oct-2017)

 富士山五合目に向かう道はいくつかある。山梨県の河口湖から入る富士スバルライン静岡県の御殿場から入るふじあざみライン、富士宮から入る富士山スカイライン──どれも僕にとってまあ行くことはないだろうなと思っていた道だった。

 まずどのルートもピストンになること、それから「富士山に上る」ことに興味がないこと、道路やその行きつく先に作興するなにかが特にないこと、そんなところ。

 だから僕が富士スバルラインの一本道を進んでいるのは自分でも不思議な、特別な行動だった。




 三連休の最終日、もともと仕事をするつもりでいた日の予定が流れ、急に、ポツンと生まれた休日だった。あわててルートを用意する時間もなく──ルートを引き作り上げるのになかなか時間がかかるのだ、僕の場合──、出かけるのなら思いつきレベルで、考えることなく走れる道だよなと思っていたところで前日に目にしたのが富士スバルラインの写真だった。終点の五合目で富士山メロンパンなるパンが食べられ、その写真にも目が止まった。興味とも関心とも遠い動機ながら、ほかに思い浮かぶ何かもなく、僕は山梨県へ向かった。


 気にしたのは着るものだった。五合目は二千メートル超。どのくらい寒いのか想像がつかなくて、そんななか平地での予報は暑い夏日が帰ってくるのだと天気予報が言っていた。でもいくら夏日だからと言って富士山五合目が夏と同じ恰好で済むはずがないとは思ったから冬に着る厚手のアンダーとタイツを履き、その上に半袖のウェアを重ねた。


 河口湖の駅前は人でごった返している。大きな観光地だと思う。よく行く東武日光駅前も同様なのだろうけど、ここのほうが雑然としている。おそらくはそう大きくない駅前ロータリーで、ここが終点の鉄道から降りてくる人、東京から直行の高速バスが着き吐き出される人、チャーターの観光バスでやってきている人、そんな何でもかんでもを受け入れてるからなんだろう。

 出発した河口湖の街の道は入り組んでいてわかりにくい。行けると思った道がその場所にはなかったり、通れると思った道がまるで人の家やどこかの敷地に入って行ってしまいそうだった。だから県道クラスの道をいろんな方角に振り回されながら走った。

 そんな街なかを、駅前から吐き出されてきたたくさんの観光客が、向かおうとする方向もばらばらに歩いている。あるいは駅前や街なかで貸し出されているレンタサイクルに乗って縦横に走っている。そして車も多い。決して広くない道の、そんな状況のなかを、何べんもごちゃごちゃと曲がりながら、いつの間にか富士スバルラインに入っていた。気づかぬあいだに。青看にそう書いてあったからわかった。今日はこの道を終点までたどるつもり。


 国道139号を横切り、富士吉田インターチェンジの入り口を過ぎると、道の雰囲気がまるで変わった。道の両側を木立に囲まれ、直線で上っていくさまが山へ向かう道を予感させた。というよりも富士山を感じさせた。半年ほど前に走った富士山スカイライン(周遊区間)の、御殿場から向かっていった上り坂によく似ていた。なんだか懐かしくなった。

 そのまっすぐな上り坂をゆっくりゆっくり上って行った先の信号機、胎内洞窟入口がこの道の最後の交差点だった。

 ここから先、終点への24キロにわたって交わる道も分ける道もない本当の一本道だって考えると不思議な感覚になった。林道も私道さえもここにはない。

 そこから1キロ満たないところに料金所がある。車線の右にトイレがあった。大型観光バスと乗用車で軽い渋滞を起こしている合い間を横切ってトイレに立ち寄ることにした。トイレにはバイクラックがあって、これに自転車をかける。バイクラックは自動車のスバルが寄贈したものみたいだ。この道路のパトロール用に車を提供したりと、スバルは富士スバルラインとかかわりが深い。


「ダメでした。ありがとうございます」

 白にブルーの模様のサイクルウェアに身を包んだ男性が空気入れを返してきた。トイレで、空気入れ持ってますかと声をかけられて、ちいさなやつでよければと僕はフレームに付けたポンプを貸していた。

「穴があいているみたいで……」

「そうなんですか。替えのチューブありますか?」

 と僕は聞く。

「いや、チューブラーなんです」

「そうでしたか……」

「いえ大丈夫です。別にクリンチャーのホイールがあるんで、後輪だけそれに替えて走ります」

 僕はそれじゃお気をつけてと言って返されたポンプを受け取った。車では彼の恋人だか奥さんだかが別のホイールを荷室から取り出して渡していた。そのホイールに付け替えた彼は料金所に並んだ。料金所を抜けて上っていった彼の姿を確認した彼女は追って車を出し、料金所の渋滞のいちばん後ろへついた。

「どこからですか? 北麓公園?」

 そんな光景をぼんやり見ていた僕はまた別の自転車乗りに声をかけられた。

「いえ河口湖からです」

「そりゃ大変だ」

 そう言って笑った彼は防風素材の分厚い、冬もののウェアを着ていた。僕も真冬に着るような素材だ。

「もしかして上って下りてこられたところですか?」

 と僕は聞いた。

「そう、今ちょうど」

「寒い、ってことですよね、その恰好を見ると」

「強烈でした。手袋も二重にしているし」

 彼はそう言ってグローブを外しインナーグローブを見せる。

「そんなに……」

 僕は言葉を失って彼の容姿を見ていたが、

「ほら上ったのが日が出る少し前だから。あと1キロのあたりで日は出たけど、そのくらいじゃねえ。今はもう日も昇って気温も上がってるんじゃないかなあ」

 と言った。

 そう言えば、さっきのポンプを貸してあげた人は半袖にハーフパンツだった。大丈夫かな。



 僕は料金所で千円札を渡し八百円のおつりをもらった。これを財布にしまい、いよいよ一本道の上り坂に取りかかった。まだ暖かい。上りに挑んでいると暑いと思う瞬間もあるほど。手持ちの防寒装備はウィンドブレーカー一枚とTシャツ一枚。Tシャツは、むかしスキーをやっているとき、寒いときにTシャツを重ね着すると軽くてかさばらないわりに防寒になると教わったから。今のポリエステルのTシャツはくるくると小さくもなるので、そうして持ってきた。とはいえ、このふたつだけだ。これで五合目の気温に耐えられるかどうかはわからない。

 交通量は、いよいよ紅葉の時期、しかも三連休とあってけっこうなもの。でもこのなかの多くを占めるアジア系外国人にとってはあまり三連休は関係ないなきっと。

 地元富士急行のバスは路線バスにせよ観光バスにせよ、自転車との距離感に慣れているのかうまい距離を空けて抜いていく。でもアジア系外国人を乗せているバスや、地元ではない観光バスはすれすれをかすめて行く。この道は路肩に大きく側溝が口を開けている場所も多いので、車やバスに寄せられたときに怖さゆえそのまま左に寄りすぎないように気をつけたほうがいいと思う。

 でもこういった大型バスってけっこう助かるもので、追い越していったあと後方にできる大きな気流に乗っかると楽だ。もちろん速度差があるから一瞬でしかないけど、これだけの台数があると積もり積もってけっこうな引きの効果になる。毎年6月にこの富士スバルラインを使ったヒルクライムレースが行われているけど、その日は交通規制ゆえ大型バスも走らないわけで、こういったものの恩恵なしに驚きの速度で駆け上がっていく選手や参加者っていうのは雲の上の存在だと実感した。


 道端にはご丁寧に1キロおきに残り距離数と、ここから1キロ区間の勾配だろうか斜度の%が書かれた標柱が建っている。この残り距離がなかなか減っていかない。一本が現れるのに思い出すほど時間がかかる。見るたびにうんざりしてくる。何でこんなものがあるんだと文句をつけたくなる。でもなけりゃないで、メーターの走行距離から逆算して頭のなかで残り距離の数字を追いかけてただろうから、その文句は言いがかりだ。きっとペース作り、ペースキープにはいい存在なんだと思う。

 標柱を見ていると、多くは5%前後だった。3%や4%の場所もある。8%を見たのは一度だけだっただろうか。長いけれど勾配はそれほどでもないとよく本やウェブに書かれているのを思い出した。なるほどそうかもしれない。

 残り3キロを見たころからあたり一帯がもやに覆われてきた。おそらく河口湖の街にいたときに見ていた、中腹にかかっている雲のなかへ突入したのだろう。濡れるような雲じゃなかったけど、太陽が遮断され、途端に寒い。標高もすでに二千メートルを超えていた。寒さで気力を失いそうだ。

 残り2キロになると道が平坦に近くなった。よくわからないけど、平坦かあるいはとてもゆるい上りだった。あるいは下っていたかもしれない。それが続き気が楽になり、残り距離から考えてもすっかり走り切った気分になった。でもそんな甘えを許さないように、残り1キロを切ってまたきつめの坂が現れた。距離が短いのにここでこれだけの斜度はこたえる。

 もう残りほんの少しなのに、五合目が見えない。太陽が出たり隠れたりするから背中が暖かくなったり全身が冷えたりした。そして何より眺望がない。途中一度雲の上に出たとき、雲海のなか遠くの連山を見ただけだった。山に詳しくない僕は形じゃ判断できず、おおよその方角から西の身延や南アルプスに連なる山々だろうかとあてずっぽうで決めつけた。それがまた雲のなかに入ってしまったせいで、もう見えることもなくなった。

 大きく右に回り込むカーブを過ぎると、白い雲のなかに駐車場や山小屋風の建物がいくつも現れた。そうか五合目に着いたんだなと思った。近づいて徐々に見えてくると、たくさんの観光客が場を賑わせていた。

「お疲れさまでした」

 と僕が靴をペダルから外したその場にいた自転車乗りに声をかけられた。僕はお疲れさまですと返した。

「途中、フォーカスの自転車に乗ったやつを抜きませんでしたか?」

「あれ、どうだっただろう」

 僕は思い出そうとしてみるけど、意外と覚えていないものだった。

「寒いですね、ここ」

 と僕が言うと、

「そうなんですよ、寒いんですよとても。もうずっと待ちながらここにいるんです。寒くて寒くて」

 と言った。確かにもうずいぶん冷え切った表情をしている。

「あのう──」

 と若い女性が声をかけてきた。「おふたりに富士山の登山に関するアンケートをお願いしてもいいですか?」

 僕と、そのフォーカスの相棒を待っている彼だろう。聞くと早稲田大学の学生だそう。女子大生だ。

「簡単なアンケートですので」

「いいですよ」

 僕はクリップボードのアンケート用紙とペンを受け取り、簡単な設問に答えて行く。横で彼も答えている。書き終えるとそれをそのまま女子大生に返す。ありがとうございましたと彼女は頭を下げた。寒いのに大変ですねと僕が言うと、いえいえいえいえ、と笑った。

「実は僕、3回受けました」

 と女子大生を見送った彼が言った。「しばらく時間をおいてここでアンケートにまわってるみたいなんですけどね、それだけここにいるんです」

「この寒いなかにですか? どのくらいいるんですか?」

「そろそろ1時間……」

 笑うに笑えない。

「お疲れさまでした」

 とまた声がする。下の料金所で空気入れを貸した人だった。僕もすぐに気付いたので、

「タイヤ、問題なかったんですね。よかった」

 と言った。

「そうですね。ありがとうございました」

 と答えて去って行った。彼女だか奥さんだかの運転する車を探してまわっているようだった。彼は下で見たまま、半袖ハーフパンツだった。早く車に乗り込みたい気持ちがビシビシ伝わってくる。

「やっと来たよ」

 今度は相棒待ちの彼が言った。どうやらやっと待っていた友人が到着したよう。せっかくふたりで山頂にそろったんだから写真撮りましょう、と僕は言い、スマートフォンを借りた。そしてふたり並んだところを写真に収めた。


 ここに来たらここにしかないらしいメロンパンを食べようと思ってた。建物のなかに入り、よくわからない食券システムで券を買い、やっとメロンパンにありつき、温かいコーヒーを飲んだ。

 下手すれば一生来ることもないのだろうと思っていた道を走り、食べようと思ったものを食べた。味は、覚えてない。そんなものなのかもしれない。これでおしまい。これでいいね。




(本日のマップ)

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