自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

早咲き桜をめぐって見沼、安行

 どちらかというと花をめでるほうではない。花の知識なんてほぼないから、目にした花がなんであるのかを聞かれても怪しい。墓前花以外で花屋に足を運んだことがない僕は、花が咲いていれば、ただ遠巻きにながめて、種類も、名前も、わからないままに、きれいだな、などと口にする程度である。

 それでも三月も後半にさしかかって、木々に薄ピンク色の花が開きはじめれば、桜を見て、春を感じようじゃないかって思うものだ。

 もっとも、桜と梅の区別もはっきりしないようじゃ、説得力にも欠けるけれど。

 

 桜並木の下で自転車をガードレールに立てかけて止めた。近くに自販機を見つけたので缶コーヒーを買ってきて、自転車の横、ガードレールに腰かけて飲む。お花見の季節はまだ先だから、犬の散歩をする人が通り過ぎるくらいだ。満開の桜はそこで咲いているだけ。僕はコーヒーを飲んだ。

 いずれにしても今咲いている桜は早咲きの種類だ。天気予報の桜前線やお花見のニュースで取り上げられるソメイヨシノじゃないのは、世の流れを見ていればわかる。お花見ムードがまだはじまらない今、それでもしっかり花をつけた桜を見てまわろうと自転車を引っ張り出した。

 

(今回のルート)

(実際のルートはこちら)

 

 日の当たった見沼田んぼはあたたかくて、でも吹いてくる風は北寄りで冷たかった。風はだんだん強くなってきて、方角によっては自転車が進まない。そして寒い。風の止まる瞬間が、春のぬくもりを感じられる日だった。

 見沼田んぼを走って向かったのは見沼氷川公園。見沼代用水西縁(にしべり)沿い、氷川女体神社の前にある公園だ。

 ソメイヨシノも咲く公園らしいけれど、今咲いているのは早咲き桜。河津桜かな。

 

(見沼氷川公園の桜)

 お花見独特の人びとのせめぎ合う雰囲気はない。ベンチには年寄りがたたずみ、広場では子供が駆ける。まるで満開の桜などここにあってないようで、誰も気にも留めていない休日の昼下がりだ。でも、こういうほうがごくごく自然な雰囲気で、僕は好きだ。

 

 

 見沼氷川公園から進路を南へ取った。川口市の安行にある、安行桜を目指して。密蔵院という寺院にある。安行桜、この密蔵院でしか聞いたことがなかったけど、調べてみたら川口元郷の駅近くにある並木も安行桜だという情報もあった。そうなんだ。

 見沼代用水西縁沿いに道があり(東縁にある緑のヘルシーロードのように、サイクリングロードとして案内されている道じゃないけれど……)、車通りもほとんどないから走りやすい。とはいうものの大きく蛇行する水路は遠まわりでもあるので、しばらくは見沼田んぼのなかの直線道路を走っていく。途中から西縁沿いに入った。未舗装の砂利道もあるけれど、僕は例によってロードバイクだからとかまったく気にしない。ママチャリと一緒になって砂利道を行く。幸い、過去も含めて砂利道を走ってパンクした記憶がない。

 JR武蔵野線はくぐって越える。

 見沼田んぼの開けた風景は、武蔵野線の築堤を長い距離にわたって一望できるから、鉄道写真を撮る人にも有名な場所。土曜日や休日の朝など、企画列車や臨時列車などふだん見かけることがない車両もやって来るから、そういう日は三脚もたくさん並ぶ。ちょうどやってきた武蔵野線の電車に僕も、手持ちのスマートフォンで一枚二枚写真を撮った。少しだけ傾いてオレンジ色を帯びた日を受けて、ステンレスの車体がオレンジ色に光っていた。

 

 少し走ると通船堀で、ここからは安行街道を行くことにする。

 通船堀は東縁と西縁に分かれて流れている見沼代用水の、東西を行き来できるように通した、小舟のための閘門式運河。東縁と西縁に高低差があるため、間を流れる芝川を介して閘門で高さを調節して行き来していたそうだ。パナマ運河潮来の水郷巡りと同じだ。ただ閘門といってもたいそうなものではなく、木の樋をはめこんで閘門の役割を果たしていたらしい。堀もそれほど大きなものじゃない。

 ちなみにこの通船堀から南側は東縁のヘルシーロードも西縁の水路沿いも自転車では走りにくくなってしまう。代わりに、芝川沿いに自転車道があって、これをたどると荒川まで出ることができる。

 

 安行街道は、自転車ではとても走りにくい。路側帯が狭く、片側一車線の車道の車線幅も狭い。車とぎりぎりの位置関係で走らなきゃならないから、ほかの道を見つけられるならそっちを選択するに限る。

 僕は、道を物色する時間がなかったのと、最短距離で安行まで抜けてしまおうと思って、安行街道を通船堀から国道122号を越えて花山下、安行とひと息に走った。だんだんと強くなる北寄りの風に乗って、車のあいだを上手い具合にペースに乗っかっていく。

 

 

 交通量の多い安行街道の道路上に、駐車場を案内する警備員が立っていた。

 密蔵院は安行街道から少しばかり入った場所にあるのだけど、幹線道路から案内を立てないと混乱してしまうほど、混雑していた。何度か来たことはあるけれど、これほどまでに車や人が出ていることはなかった。

 思えば、お彼岸の三連休にここにやって来たのは初めてだ。

 僕は自転車を降り、押して歩く。

 

 なるほど、満開だ。

 

(密蔵院の安行桜)

 桜は、満開をいくらばかりか過ぎたようで、風にあおられて花びらが舞っていく。散りはじめか、まだまだ木は花で重々しく、ただ、風が吹くたびに花びらは宙を舞うように踊り、やがて地面に落ちていく。

 参道に並んだ桜を歩きながらながめ、人の流れがあるようでなく、入り乱れているから、山門手前から脇道へ逃れるくらいしかなかった。お花見客とお墓参りの人とで歩くにも方向性がないようだ。僕は初老の男性に写真を撮ってほしいと声をかけられ、自転車を立てかけて、スマートフォンを受け取った。彼は近くにいた孫の名を呼び手を取ると密蔵院と書かれた石柱の前に立った。僕は二枚か三枚、写真を撮る。そして確認してくださいとスマートフォンを返した。助かるよ、こういうの若い人じゃないと頼めないから、と彼は言った。そうかな、ほかにも見かけないかなと僕は周囲を見まわしてみたが、確かにそのとき参道を歩いているのはなぜか年寄りばかりだった。

 

 

 密蔵院の近所にまた同じように桜が咲く場所はないかと探していたとき、安行出羽公園を見つけた。僕はその公園をGPSマップに組み込み、そこを通るルートを引いて持ってきていた。

 場所は密蔵院から北へ向かって、東京外環道が頭上にある国道298号を横切った先にあるらしい。

 

 引いてきたルートに従って走ると、まわりは住宅街になった。一戸建てが建ち並び、道路は格子状に組まれている。こんなところにそんなたいそうな公園があるのかと思いながら走ると、それは住宅街の一角の公園だった。区画整理時に公園区画とされたような場所だ。いくつかの遊具があリベンチがあり丘を模した土盛りがある、まさに住宅街の公園だった。

 ぐるりと取り巻くように道をまわっていく。公園は休日の午後、小さな子を連れた母親がベンチで談笑したり、休みの日だからと子供とボールを蹴る父親の姿があった。ふつうの公園のふつうの日常──桜だのお花見だの、そんなものは無縁の空気が流れていた。空振りだったか? 園内を見渡しても桜はない。

 あきらめて通り過ぎようかと思った、脇の伝右川(でんうがわ)沿いにそれはあった。

 見事なまでの、満開の桜並木だった。

 

(安行出羽公園近くの桜並木)

 

 これだけの重厚な咲きっぷりを、誰も気に留めることがない。公園で子供を遊ばせる母親は友達との会話に夢中だし、子供とサッカーをする父親はボールを蹴って子供と走りまわっているばかりだ。川沿いを歩く人は、ただの通り道として歩いたり、犬の散歩をしたりするだけで、その日常の延長は満開の桜など存在していないかのようだ。一眼レフを提げたカメラ女子がひとり、橋の上から連なって見える桜並木を、レンズを何度かまわしながら小気味よくシャツターを切った。カメラを横にしたり立てたり、自身がしゃがんでみたりしながら幾度かシャッターを切り、それからいなくなってしまうと、もう誰も桜に目を向ける人もいなかった。

 でも、僕はこれがいいなと思った。

 お花見のどんちゃん騒ぎや、話題に乗っかって押し寄せる人波なんかよりも、こうして季節がやってきたからと自然と咲く桜と、そこをごくごく日常のように通り過ぎる人びとの光景が僕を和ませ、そこにとどまらせた。ならばと近くにあった自販機で缶コーヒーを買い、ここでひと息つけようと、桜を見上げながらプルタブを開けた。

 缶コーヒーを飲む5分ばかり、北寄りの風にあおられる桜の木々を眺めていた。