自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

上天の道、上天の茶室 - 粟谷松田林道、行道山浄因寺(Apr-2019)

 最初に断っておかなくちゃいけない。
 行先は志賀草津道路でも磐梯吾妻スカイラインでも富士スバルラインでもない。稜線道路でも高原道路でもなければ、須藤英一氏の名著日本百名道に取り上げられるような絶景道路でもない。標高だって二千、千、いやいやそんなおこがましい……。五百メートルにも満たない足尾山地の南端である。
 そこへ、出かけてきた。

 

 

 東武伊勢崎線足利市駅で降りた。
 直通列車を狙えばここまで乗り換えなし、一本で来ることができる。もっとも東武線の歴史をさかのぼれば、そう古くないむかしでさえ伊勢崎線の列車はみんな浅草から出ていた。一時間に一本、通称A準急と呼ばれていた日中の準急・伊勢崎ゆきなんていうのもあって、現在の特急・りょうもうの停車駅にほぼ等しい速達列車だった。それも今はむかし。大動脈伊勢崎線も大半は久喜での分断、それから先はローカル運用で館林、太田と細切れに走っている。僕らは細かく乗り継いで行かなくちゃならない。
 それでも朝夕の一部に浅草から直通で館林や太田まで行く列車が残っているだけでもまだマシなのかもしれない。日光線など南栗橋で完全分断なのだから。

 

 ここで降りたのは昨年三境林道へ出かけたとき以来か。前日光基幹林道や桐生方面に行くときに使うことが多い。桐生だったら東武も通じているのだけど、太田から枝分かれするさらにローカルの桐生線で行くことが、乗り継ぎ時間も乗車時間もけっこうなロスになるからここ足利市から走っちゃう。前回の三境林道に行ったときもここで降りた。桐生線に乗るのはさらにわたらせ渓谷鉄道へと輪行の足を延ばすときや、桐生への10キロ、赤城への15キロでさえ距離を削りたいときだ。
 そして今回は前日光林道でも桐生方面でもない。
 林道粟谷松田あわのやまつだ線。
 仕事のお昼休みに何の気なしにこのあたりの地図を眺めていたら見つけた。
 このあたりは山と関東平野とのちょうど境界で、足尾や前日光から延びる山々が、天狗のヤツデのように平野部にその南端を伸ばしている。足利はまちの中心部からそれぞれのすき間を縫うように県道を伸ばし、一部山のなかへと入りこんでいく。ヤツデの葉と葉のあいだを峠越えでつなぎ、双方の集落と集落を結んでいる。
 そんなわけで道は多いわけではないものの、それなりに地域間を道路でつないで構成できているように思う。
 その県道と県道とのあいだ、番号でいうと218号名草小俣なぐさおまた線、219号松田葉鹿まつだはじか線に挟まれた山あいに、一本の道路を見つけた。
 なんでこんなところに道路があるのか。林道の情報は少ない。調べると自転車乗りの情報がちらほら出てくる。見る限り全線舗装の林道らしい。グーグル・ストリートビューでペグマンのドラッグを試みると、全線に撮影済みの青い線がつながって出た。僕はその道が通れる道かどうかの判断に、ストリートビューの撮影が済んでいるかをよく指標にする。済んでいるならあの撮影車が走れる道だと判断できるから。まあストリートビューの撮影がされていない道でもなんだかんだと出かけてしまうけど。
 このまったく知らなかった林道への起点を、足利市駅に置いた。

 

 日中の気温が上がると聞いたので、冬の服を着つつ、インナーの枚数を減らしてみた。さすがに薄手の春夏にするのもおっかなかったので。なにしろ先週、季節外れの寒波と雪がやってきたのだ。四月も中旬だというのに。
 だから駅を降りたときはまだ若干肌寒かった。空気も澄んでいてまるで冬の延長のようだった。ここまで着ていたウィンドブレーカーを脱ぐかどうしようかさんざん悩んで、脱いだ。
 古いトラスの渡良瀬橋から川沿いに出て、そこから葉鹿橋まで川沿いを走った。冬みたいな澄んだ空気が、正面の赤城山をやけにはっきりと見せた。先週の雪のせいなのか、それとも前々からなのか、真っ白な山稜部が絵に描いたようだった。それが3キロ、5キロと走るだけで近く、大きく見えてきた。たかだかそれくらいの距離で? そう疑問を持った。でも間違いなく山は圧倒的迫力で近づいてきた。
 渡良瀬川が方角を変えると、今度は富士山が見えた。山頂からすそ野にかけてかなりの面積が白く覆われていた。どう見ても富士山なのだけど、どうしても、あれは富士山なのかと自信が持てずにいた。4月のこの時期、栃木県南のここから富士山をこれだけはっきり見ることができるのか。僕は別の山を富士山と勘違いしているんじゃないかって疑念を抱き続けた。
 そんな冬のような澄んだ空気だった。景色のすべてがくっきり見えるものだから、風景はいやに平板に見えた。大きな背景画のようにまるで奥行きなく感じられた。空もただ青かった。青く澄み過ぎてその果てがまったくわからなかった。

 

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 葉鹿橋で渡良瀬川を渡り、一度下って葉鹿跨線橋をまた上ってJR両毛線の線路を越えた。しばらく県道219号を走ったあと、板倉という字で路地に入った。
 足利のまちは寺や神社が多い。ばんな寺や織姫神社のように有名どころももちろんながら、小さな寺や神社がたくさんある。室町文化を感じさせるような建築や装飾もあったりして、歴史を感じさせる。この路地に入っただけでも寺がふたつ、神社が三つもあった。至近に。特にここが寺町というふうでもない。市内にこうやって点在しているのだ。この地の信仰と歴史と文化を感じさせる。
 路地は初め住宅街のなかだったけど、やがてそれを抜けたのか家々が点々とし始めた。おおかたは農地で、家も少し行くだけでやがて農家の家づくりに変わってきた。もともと広くない道だったので、どこから林道が始まるのかわからなかった。あるいはもう始まっているのかもしれない。
 徐々に左右から山がせまってくる。平地は狭められ、家も農地も少なくなった。坂もいつのまにか始まっている。ゆるゆると進む途中、林道で見慣れた山吹色の四角い標識が現れた。
 どうやら、いよいよここからのよう。

 

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 初めのうちは、路地からの延長の雰囲気のまま山の南斜面を上っていった。日当たりが良く、だいぶ暖かくなってきた。ウィンドブレーカーを脱いでおいて間違いじゃなかった。その暖かさは冬の澄んだ空に春の穏やかな空気が混在しているみたいに思えた。悪くなかった。寒がりの僕にはいい季節になったと思った。気持がいい。
 道にはときどき錆びて倒れかけた「警音器鳴らせ」の標識があった。朽ちて倒れているものもあった。それがさびれた道の印象を高めさせた。国道や県道じゃ最近、この「警音器鳴らせ」を見かけること自体が減った。見かけなくなった標識を目にし、それが朽ち果てそうになっているものだから気分も高揚した。
 それとこの「警音器鳴らせ」があるものの、なぜかほかの標識がない。林道は道路法の管理外になるので、必ずしも一般の道路と同じ標識を立てる必要がない。でもじゃあなぜ警音器鳴らせだけがあるのか不思議に思えた。カーブありや屈曲あり、落石注意などの警戒標識は一般の道路に準じて立てたりするのをよく見かけるけれど、それらがなくこの標識を選んだ理由は何なんだろうと思った。
「こんにちは」と後ろから声がかかり、ロードが一台僕を抜いていった。
 道はやがて森に入った。森は背の高いうっそうとした杉林で、急に薄暗くなった。なるほどそうかと僕は思う。この山は現役で林業が盛んに行われている山に違いない。そのためにこの林道はあるんだろうと。県道の218号と219号が並行してあり、集落のための行き止まりでなく山の向こうに突き抜けて道路連絡があること(県道218号猪子ししこトンネル出口に接続する)、全線舗装であることから、それなりの需要が見込まれて、必要性があって、造られている道路だと感じていた。石尊山せきそんざん深高山しんこうさんへの登山アプローチにも使われるのだろうけど、にしても全線舗装とは立派だと思っていた。なるほど──。そして切りだされて切り株だけが残った一角が何箇所もあった。
 気づくと、何台かのロードとすれ違い、何台かのロードに抜かれた。地元自転車の坂の練習に使われているみたいだ。そういえば松田から前日光基幹林道の長石線に入っていったときもチーム体制で上っていくロードがいた。これだけ舗装された道が整っていれば練習には最適なのだろう。おまけに車もほぼ来ないから安全だ。10%を越えるような勾配もあるけれど、彼らにはかえっていい運動強度なのかもしれない。僕にはきつすぎるから止まって休むけど。
 そんなわけで、僕はまたこの林道のさびれ感に浸りつつ止まった。

 

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 道が森から出た。すると一気に視界が開けた。太陽がいつのまにか高く上がっていて、暑いほどだった。周囲は山々に囲まれていて、眼下は松田川に沿った道路とまちだとわかった。あんなに澄んで遠くまで見渡せた朝の冬の空気は消えてしまったのか、いつのまにかすっかり春霞みがかかっている。
 風景から強烈な印象を受けた。
 ここは標高にしたらせいぜい350メートル。高い山とはとうていいえない、低山にしたってかなり低い部類だ。なのにこの光景はどうだろう。松田川沿いのまちなみや道路を遠く見下ろす。それゆえ相対的に自分の位置がずいぶん高いところにあるように思え、この道が天近くを経由する高原道路のように錯覚した。僕は自転車を降り、しばらくこの光景を見ていた。地図と照らし合わせるように道路や川を眺めた。向こう側の山へ向かって上っていく道がある。あああれってこれから走ろうとしている県道284号松田大月線なんだって気づいた。下った松田のまちからさらに山を向こうへ越えていく馬打うまうち峠へ向かう道だ。それがはっきり見て取れた。道路や川、まちの位置関係がわかってくると、それはまるで扇状地を模式化した博物館の模型のように見えてきた。

 

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 先にはこれから下っていくこの粟谷松田林道のはるかな道が見える。これでさえ天空の、高地を行く山稜林道に思えてくる。かつて走った高原林道、湯ノ丸高峰林道のように錯覚した。向こうは二千メートル級、こちらはたかだか300メートルそこそこにすぎないというのに。

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 粟谷松田林道を下り、猪子トンネルの出口に着いた。林道の旅もお終い。けっこうな数の自転車が行き交った。こんなところで上天の道だと騒いでいるのなんて僕ひとりだろうなと急に覚めた苦笑いが出た。

 

 

 もうひとつ、出かけようと思っていた場所がある。
 足利の古刹、行道山ぎょうどうさん浄因寺じょういんじである。
 かつて一度、僕はここへ行ったことがある。葛飾北斎の絵につられて行った場所だ。北斎はこの地の巨岩上に建つ清心亭せいしんていと、それに架かる天高橋あまのたかはしを「くものかけはし」として描き、諸国名橋奇覧に収めた。これを見に行くため、足利に来た。もう10年近く前のことだ。
 結果、さんざんだった。駐車場に車など止まっておらず、僕の自転車を止めると、ぽつんと、どこか場違いな、忘れられて放置された自転車に見えた。長い石段を上がるさいちゅう、誰ひとりとしてすれ違うことがなかった。いくつかの山門をくぐり、上った先はまるで廃屋だった。使わなくなった寺のものか生活のものか、いろんなものがその辺に放置されていた。ゴミのようだった。そして見上げたところに清心亭はあった。その姿は雨戸にぴたりと閉ざされ、雨戸が風雨にさらされてひどくみすぼらしかった。天高橋へ向かう急な石段には鎖がかけられ、入れないようになっていた。人の気配がなかった。誰もいないまま朽ち果てていく、廃墟に見えた。このとき、もう、ここはだめだと思った。
 あとになって、ここはもう無住寺になっていると聞いた。真偽はわからなかったけど、うなずけた。
 なぜここへまた行こうと思ったのか正直わからない。粟谷松田林道だけ走って帰っても物足りないと思ったのかもしれない。にしてもかつての記憶でなぜここを選んだのか、自分でもよくわからなかった。廃墟の進行ぶりでも見に行こうと考えたのかもしれない。

 

  • 北斎が描いたくものかけはし

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 浄因寺へ行くにはもうひと山越える必要がある。さっき粟谷松田林道の高みから眺めた馬打峠で越えていく。僕は松田まで下ったのち県道219号を何キロか下り、県道284号に折れた。馬打峠はそれほど高くない峠だ。遠く俯瞰した上り坂を、今度は自分の足で上っていく。これもまた不思議な一体感。自分が上から見ているような気分になる。
 この道を進んでいくとカーブに番号が付けられているのに気づいた。「U-2/19」などと記されている。これは19あるカーブのうち2番目ということなんだろう。Uとは? まさか馬打峠のUだろうか。鉄道路線駅ナンバリングみたいだ。でも悪くない。走っていて目安にもなるし。これが全国各峠に普及すると面白いのに。
 馬打峠はカーブ番号U-8を過ぎたところで現れた。切り通しの、眺望もない峠。でも僕には峠らしい峠って映る。意外と好きだ。
 ここから浄因寺への登山道もつながっているらしい。歩いて行っているのか、車が一台駐車してある。僕はさすがに歩いて行くわけにもいかないので、一度下りきって、車道から上りなおす。

 

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 桜が活況だ。ソメイヨシノがちょうど時期のようで、風にあおられて満開の花びらを散らしていた。舞台の演出装置かと思うほど、完ぺきに。
 八重桜もつぼみを付け始めた。これからは遅咲きの桜が一斉に彩るに違いない。
 そしてこの地でびっくりしたのは、これらの木々や花がみな個人宅の敷地内にあることだった。百花繚乱は各家々の塀のなかで繰り広げられていた。家はどこも大きな屋敷ばかりだった。家々はこれだけの大きな木々をいくつも育て、それが毎年花を咲かせていると思うと驚きだった。
 そんな桜吹雪のなかを上っていくと、行道山浄因寺の石柱が現れた。ここからは浄因寺の私道で、セメント舗装の道が続き、急坂を上ることになる。確か20%くらいあるような坂を行った。ひと気も往来もない道は苔が浮き、水濡れしていたこともあって変に滑りながら上った記憶があった。
 しかし石柱の前で上る前に休憩していると一台乗用車が入って行った。それから僕も上って行く。最初のうちはそうきつくはない。そこへ上からタクシーが下ってきた。タクシー? 誰が呼んだんだ? すれ違いも困難な道のうえで、ぎりぎりまで左に寄ってタクシーとすれ違った。いよいよ道も急になり斜度がいったいどれだけあるのかわからない。あまり前乗りになるとペダルを踏んだときに後輪がグリップしなくなるし、後ろ乗りにすると今度は前輪の舵取りが不安定になった。溝が切られたセメントは、あちこち剥離があって荒れていた。なるべくいい路面を走りたいけど、急坂でそこまで舵取りができない。歩くよりも遅い時速2、3キロで上る僕には難しい道だなあと思いながら進んで行くと駐車場が見えてきた。そこには、数多くの車が止められていた。

 

 あきらかに、活気がある。そして駐車場にスタッフがいる。寺の用意したスタッフというよりは、地元高齢者によるボランティアスタッフに見える。そろいのブルゾンと帽子をかぶったおじさんがふたり、会議室のテーブルと椅子のようなものに座っている。
「上がってきたんかい、えらいご苦労なことだね」
「はい、いや厳しいですこの坂……」僕は呼吸が整わず、会話を上手につなげない。「自転車はどこに置いたらいいですか?」
「その隅に置いておきな。大丈夫、俺たちが見てるから。来る人全員を見てるわけじゃないけど、自転車ならまずいないから」
 僕はおじさんの示すあたりに自転車を置いた。ここから長い石段を上る必要がある。そのかたわらに、よくみかん畑で見かけるラックレールが、寺に向かう急斜面に付けられているのが見えた。運搬用モノレール?
「それじゃあ行ってきます」と僕はおじさんに声をかけた。
「頑張ってな、365段あるよ」
「そうですか」数字を聞いて思わず苦笑いが出た。
 石段を上りながらすれ違ったのは座席のついたモノレールだった。運搬用ではなかった。まさに、この寺を見に行くための、観光用に違いなかった。
 僕は頭が混乱した。かつて10年近く前に見た廃墟は、ひと気もなく観光の要素などひとつもなかった。崩れた建物の残骸と、ゴミ置き場になるに違いないと予感させる場所だった。そこにみかん運搬と同じ簡易モノレールが走り、観光客を運んでいる。あるいは当時からあって僕がそのとき気づかなかっただけなのか。
 石段を上っていても、幾人かの人とすれ違った。こんにちはと声をかける。こんにちはと答えが返る。車で来た人もいれば、あるいは市内や馬打峠からトレッキングで来ている人もいるかもしれない。山門をくぐる。さらに石段を上り、もうひとつ山門をくぐる。そこが広場になっている。本堂のある広場で、さらには清心亭への昇り口のある場所だ。
 そこには多くの人がいた。歩いて石段を上ってきた人、モノレールで来た人、トレッキングで稜線を縦走してきた人もいるかもしれない。みなこの浄因寺を観光で訪れていた。
 別物だった。
 ここにもスタッフがいた。おじさんがひとりともうひとりは僕と年のころが同じくらいの人だろうか。清心亭を見学するのに200円を徴収していた。見学? 僕は少し驚いて空を見上げた。そこにはきれいに整備され春の光を浴びる、小さな建屋があった。朽ち果てそうな雨戸に閉ざされた廃屋ではなかった。見学ができるほどきれいに手を入れられたそれがあった。
 僕は迷わずここへ上がることにした。ボランティアのおじさんに指示された右手の石段から上がり、北斎の絵にあった天高橋を今まさに渡る。現代の天高橋は鉄骨と鉄板で作られていた。北斎が描いた木橋ではなかった。鉄骨も鉄板も錆きっていて、近年架けなおしたようではなかった。前回来たときはここまで上がることができなかったから、そのときからこうだったのか知るすべもない。これを渡って、いよいよ直立する岩上に危うくも建つ清心亭へ立つ。靴を脱ぎ、その廊下へ上がった。
 恐ろしく掃除が行き届き、古いのにピカピカだった。障子は張り替えられたのだろう障子紙に染みひとつなく、壁も塗り替えられたのか汚れなき白だった。和室のふた間がこの清心亭のすべてだ。直立巨岩の岩上はまさにこの面積なのだ。そして障子やふすまはすべて開けられ、ふた間の和室を取り巻くように縁側廊下が囲っていた。そこには手すりというにはほど遠い、きゃしゃな木のふちが付けられているだけだった。恐ろしいほどの絶景である。直立する岩の上に建つ建屋から見れば、岩の姿など見えない、直下の崖だ。高いところの苦手な僕など気が変になりそうだ。足など滑らせたら、支えるものも掴まるものも何もないと思っていい。恐怖だ。しかしながらここから眺める足尾山地の終端の山々は格別の絶景だった。朝の澄んだ空気が残っていたらどれだけの景色を見ることができただろう。春霞みでも、この遮るものひとつない絶景は言葉を呑みこむ。
 和室のひと間を茶室に使っているのか、茶器が置かれていた。この絶景を目にお茶会をやるのだろうか。この風景を眺めながら飲む茶とはいったいどんな味だろう。そのときどんな気分だろう。世界一の上天の茶室ではないだろうか。天空のお茶会が催される場所ではないだろうか。

 

 僕は廃墟の記憶をつなぎ止めつつ、天高橋を渡り急な石段を降りて戻った。
 スタッフのおじさんが、
「どうもありがとう、ごくろうさん」
 といった。僕は、
「十年くらい前に来たことがあって、そのとき廃墟みたいだったんですが、市かなにかで保存の手を入れているのですか?」
 と聞いてみた。
 僕の質問の仕方が悪かったのかもしれない。はて、という顔をしたおじさんは「さあどうなんだろうか」とだけいった。
 この広場にある建屋が本堂で、それはどうやら機能していないようだった。寺は変わらず無住寺なのだろう。猫がここを守るように、いささかのんきに日向ぼっこしている。寺としてではなくこの天高橋と清心亭を、きっと北斎の描いた世界観を残すために、こうして維持活動を行っているのかもしれない。僕は向かいの寝釈迦に向かう石段を上った。そして北斎が見たであろう角度から清心亭を眺めてみた。さっき僕がひとまわりした縁側の廊下と、開け放たれた障子、茶室が見えた。もうそこには廃墟の印象はひとかけらもなかった。縁側から部屋へ、春のやわらかい風が吹き抜けていくのが目に見えるようだった。

 

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「ありがとうね。また来てよ」
 石段を一段ずつ、滑りやすい靴で気をつけながら下って、駐車場まで戻ってきた。自転車を見ていてもらったお礼をいうと──見張っていたわけじゃないだろうけど──、おじさんはそういった。
「はい、ぜひ」僕はいった。「絶景でした」
「坂、気をつけてなあ」
「ありがとうございます」
 僕は狭いセメント路を下り、県道を経由し、足利の市街地へと帰路に就いた。

 

 なんという絶景の一日だったろう。標高なんてひとつも高くない。数値だけから判断してこんな景色を楽しむなんて思いもよらなかった。数字じゃわからない。じっさいにこの目で見てみないと。
 僕は市内の目をつけていた洋食屋に立ち寄った。入っただけでここは間違いない店だと確信した。さんざん悩んで最後はハンバーグと鶏の照り焼きに絞り込み、それから鶏を選んだ。ハンバーグも捨てがたかった。でも両方食べるのも無理だ。きのこのスープも美味そうだった。
 ガーミンを見ると、ここまでわずか35キロにも満たなかった。でも走り足りない気持もまったくなかった。むしろ変に距離を伸ばして中途半端なサイクリングが今日全体の印象を薄めてしまうのも嫌だった。つくづく、自転車旅とは距離じゃないなと実感した。
 鶏の照り焼きが運ばれてきた。それは間違いのない美味さだった。

 

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(本日のマップ)