自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

一富士・二富士・三富士/熱海街道、千本松原、さった峠(Jan-2018)

 とにかく富士だ。二鷹・三なすびはもういい。一も二も三も富士だ。富士山だ。──四、五、六もあるとかないとか。

 どう自転車に乗るべきか悩んでそれでも自転車に乗るメンヘルはこれで少しだけリハビリになった(はずだ)。昨年一年(実はもっと前から)、富士眺望の運にすっかり見放されていた僕は、ここにきて逆転の眺望を手に入れた。一日のサイクリングすべて、目の届くところに富士がある、それだけで気分は晴れたみたい。大いなる気分転換──。人として単純すぎるかもしれないけど、ありだ。そうに違いない。

(本日のマップ)

GPSログ

 

 

 熱海駅の午前8時半はやっと日のぬくもりを覚えられるくらいで、震えながら自転車を組み上げていた。とにかく朝の東海道線が寒いったらない。空調がかかっているのかいないのか、車内は寒いうえに、4つ扉の車両が駅に着くたびそこから冷たい空気が流れ込んでくる。まるで冷凍庫のよう。乗っていれば乗っているだけ身体は凍りつくように冷えていき、終着熱海駅に着くころには歯を鳴らして震えていた。

 今に始まったことじゃない。以前からずっと、とにかく東海道線に乗っているあいだが寒い。地元埼玉県は寒いから走りたくないと輪行で逃げだしてきているのに、走り出す前に凍りつくほど身体を冷やされたらもはやどっちもどっちだ。あわただしく終着駅のホームを駆け出す、沼津・静岡方面のJR東海や伊豆方面へ乗り継ぐ人を今日はゆっくりと見送り、改札口へ向かった。今日は席取り合戦には参戦しなくていい。震えのある手で18きっぷを出し、駅務員に見せた。

 さった峠を、目指している。

 それはイコール、富士を見に行くと言って言いすぎではないはず。いにしえの東海道を楽しむとか、入門的軽ハイキングに持ってこいとか、そんな話もあるかもしれないけど、ここに来る人は富士山を見たくて仕方がないのだ。それを目的にしているのだ、絶対に。

 僕が今日さった峠を選んだのは、メンヘルの気分転換に富士山を見ようとか、正月明けで縁起がいいとか、そんなんじゃなかった。単に「冬だから」だ。冬なら富士山が見える可能性も高いに違いないって、それだけだ。じっさい見えないかもしれない。それならそれ。でも冬なら見える確率が高いんじゃない? それだけだ。見えたらどうとか、見えないからまた運がないとか、そんな考えはなかった。

 

 自転車は組み上がっているのに、寒さで気持ちが入らず、なかなか走りだせない。でもビルの陰をかわしながら狭い日なたを探して立ち続けていてもあたたまるわけじゃないから、出発することにした。駅前の車の走る通りには行かず、アーケードの商店街を押して歩いた。

 

 この先の熱海街道は強烈な坂である。10%の坂が休みなく続く区間もある。はじめてこの道へ来たとき、その勾配にまたたく間に音を上げ、何度も休んだり押したりを繰り返した。つらいばかりでいつになったら終わってくれるんだって、ひとりなのに声にまで出して愚痴った。坂のプロフィールが厳しくって、たいていの山道・峠道なら存在する、ちょっとした平坦や、しばらくの距離現れる勾配の緩い区間みたいな、途中休ませてくれる場所ってものがまったくない。淡々と均一の、きついばかりの勾配で上って行くのだ。

 だからここに来るときは、「坂を上りながら休む」という、一休さんでも答えに窮するかもしれぬとんち問答のような発想が必要だ。本当に休んでいる必要はない(できないし)。それは坂でも強いポテンシャルを発揮するアスリート系自転車乗りがやればいいことだ。僕には直結しない。ただ気分というか心がまえの問題。坂の“ナナメ感”が延々と、カーブを曲がろうが、遠くまで見通せようが、目に見える範囲にずっと続いているなか、その坂に対して「いいよ早く上ろうとしたってできっこないし、そうしようがしまいがペダルを踏む回数は一緒なわけだし、休みながら上って行くほかないわけで」と思えることが大事。どうせあと256回ペダルを回さなきゃいけないとすれば、それは踏もうが休もうが変わらないのだ。逆に言えば256回ペダルを回しさえすれば上れるのだ。

 どこの坂を何分で上ったとか、一日にどれだけの距離を走ったとか、平均時速はどれだけだったとか、今まで気にしたこともなかったノイズが僕の意識下に侵入して、叫びそうになったり自転車に乗ることをやめようかと思ったりするようになってたから、あきらめのつくこの熱海街道へやってきて、ノイズとはかけ離れた世界で上ればいいじゃんって、良識的に見ていたもうひとりの自分が今日のコースを仕組んだのかもしれない。

 温泉街の細く曲がりくねった道を抜け、来宮駅の前に出たらいよいよ坂が始まる。駅でひと息つき、坂へ向かった。

 

 冬場はいつも途中の笹尻交差点まで。そこで曲がる。熱海峠には行かない。特に熱海峠から向こう、函南に下る県道11号の旧道が車通りもほとんどなく、道もほぼ日陰であるがゆえ凍結していることがよくあるから。それに、函南に抜けるのに何も無理に峠を越えなくたっていい。

 笹尻交差点を左に曲がれば県道11号、かつて熱函道路と呼ばれた有料道路だった道を行く。箱根から伊豆に続く山々を越すのに長いトンネルをくぐるけど、僕はそれほど気にならない。交通量がそこそこあるものの、ふつうの道のように気をつけて走ればいい。

 

 笹尻交差点を左折、その熱函道路に入った。すぐに左手の視界が広がる橋を渡る。西熱海大橋──熱海街道の急な上り坂の最後の右カーブで頭上に見えたデッキトラスの橋だ。よくまあ上ってきたものだ。

 橋から左手は熱海の街、そして相模湾だ。海には初島がまるでおもちゃの船のように浮かんで見える。その奥の白霞みでぼんやりと、伊豆大島が見える。こうしてみると熱海の街の断崖絶壁ぶりがよくわかる。

 海がキラキラときれいだことなどと思いながら、この先の下りはどうだろうな寒いかなと考えをめぐらせ、上りでは脱いでいたウィンドブレーカーを着ることとにした。

 

 熱函道路にはふたつ、トンネルがある。相野原トンネルと鷹ノ巣山トンネル。相野原トンネルはすぐに終わるのだけど鷹ノ巣山トンネルは長く、1キロ以上ある。ここのトンネルは何度も通っているけれど、さほど怖くない。三浦半島の追浜・田浦・横須賀近辺の国道16号のトンネルや、房総の国道127号、128号のトンネルはおそろしいけど、ここはそんなことがない。

 長い鷹ノ巣山トンネルを4、5分かけて抜けると、ゆるやかに下り始める。もうこちら側は丹那盆地函南の町だ。そして第二丹那橋、いよいよ僕の前に富士山が現れた。

 

 ウィンドブレーカーを着こんでつくづくよかったと胸をなでおろした。トンネルを出てわずかばかりの距離を走っただけなのに、凍えるほど寒い。熱海街道は上りであり東向きでもあったため日も当たっていた。熱函道路のトンネルより西はまだ午前中のこの時間、日も当たらないうえ下り坂だから走っているだけで寒い。上ったときにかいた汗が冷やされているだけじゃない。

 下りながら、どうすれば寒くないかを思案してみたけど、何ひとつ浮かばなかった。だってできることといえばブレーキを握ったり放したり、ペダルを回すか回さないかくらいのことだ。ペダルを回しているほうが身体が動いてしのげそうだけど、スピードが出てしまうとそれはそれで寒い。どうしたらいいのかよくわからなかった。

 函南の町役場まで下ってきて、そこから大場を経由し、清水町内はしばらく狩野川に沿って行く。そのまま沼津市に入るといつの間にか道は大きくなり、千本街道なる道になっていた。左手に現れた松原から名付けられたのただろう。沼津の有名な千本松原だ。

 近くを何度も通ったことがあるのに、見るのははじめてだ。

 そういえば千本松原沿いの海岸線に自転車も走れる道があるって聞いたことがある。サイクリングロードかどうかまで知らないのだけど、せっかくなので見てみようと思い、千本松原のあいだを抜けるけもの道のような砂利を抜けた。

 そこは防波堤の上にある整備された道で、歩く人や走る人、もちろん自転車も走っている。

 湾に沿ってカーブを描く、長い長い松原に驚いた。なるほど千本松原か。でもゆうに千本以上あることは想像がついた。

 

 しばらくこの海岸線の道を走った。日差しを受けてあたたかい。ウィンドブレーカーを脱いでポケットにしまった。

 車はほとんど来ないみたいだ。走れないのかどうかはわからない。サイクリングロードに印象は近い。一般の道路を走る自転車乗りは挨拶をする、サイクリングロードを走る自転車乗りは挨拶をしない、その法則もあてはまっているようだし。

 

 ビルや、木々のあいだから右手に富士山が望む。それが徐々に大きくなってきている。いや大きいなんてもんじゃない、近すぎる、僕はそう感じた。

 

 街道に戻って道路沿いのミニストップで休憩を取った。あたたかいコーヒーが飲めてホッとした。南向きのガラスに面したイートインスペースは温室のなかにいるようで、眠気を誘った。

 

 

 田子の浦港にある漁協食堂に電話を入れたのは、年末の12月29日だった。今日、やっているかどうかを聞くために。

「あいにく昨日(12月28日)で年内の営業終わっちゃったんですよ 来年は4月からの営業になるんですが」

「4月? 春の4月ですか?」

「そうなんです、冬は年末終えたらやらないんです」

 と申し訳なさそうな電話口の声だった。そうなのか……。残念だけど、電話して確認できたのはよかったのかもしれない、とそのとき思った。

 しらす丼が名物らしい。

 食べられないのはわかったけど、田子の浦港に立ち寄ってみることにした。

 真っ白な漁船が岸壁に沿って、ゆるやかに弧を描くように停泊している。そして背後には富士山。

 

 しばらく田子の浦の町なかを走ってみた。

 あちらこちらに「しらす」ののぼりが立っている。

 しかし僕は素通りする。別に漁協食堂で食べたかったというわけじゃない。なんとなく興味が冷めただけだ。もともと、それほど食べたいわけじゃなかったのかもしれない。

 

 吉原から富士へ、大工業地帯のなかを抜けるように走る。工場ひとつひとつの区画が大きく、道を一本間違えると大きく遠回りしなくてはならなかった。右往左往というよりは大きな工場敷地をまわるように直角に、まるで道路であみだくじをするように進んだ。ガーミンに引いたルートを入れているものの、田子の浦の町をまわったり、じっさいは通れない道を引いてしまっていてう回路を探す必要があったり、大きな回り道を何度かしなくちゃならなかった。

 工場の向こうには大きな富士山。

 

 熱函道路や沼津で見たときはその手前に愛鷹山が横たわっていた。それがここまで来てしまうともうさえぎるものは何もない。僕には大きすぎる富士がつねにそこにある。どこを走っていても振り向けば富士山があった。

 

 富士川を長い橋で渡りながら思った。ここで暮らす人にとって富士山ってどういう存在なんだろう。毎日、あらためて「今日はきれいだなあ」とか思うことはないんだと思う。意識することってないんじゃないだろうか。あって当たり前。そこにあるもの。でも日々あらためてその存在を確認したり、見えるだの見えないだの、きれいだとか雪がかぶったとか、そんなことをこれっぽっちもしないとしても、富士山のない土地に移り住んだりしたらきっと、慣れるまで違和感を感じるんじゃないかなと勝手に想像した。慣れるまでというのは短いかもしれないし人によっちゃ一生かもしれない。あって当たり前ながらないと不自然。そんな存在。

 

 日本人にとっての神様って存在も、そんなものかもしれないな。

 

 

 遅い昼を定食屋で済ませ、さった峠に入るころには15時をまわっていた。

 旧東海道の峠越えなのだろうけど、その急坂は鈴なりのミカン畑のなか、愛媛の松山の家の裏手の坂道を上っているような気分だった。今のミカンははっさくだろうか。大ぶりの実が鮮やかに山を彩っている。毎日刈り取っても間に合わないんじゃないかと余計な心配をするほど見事だった。僕の母が愛媛・松山の出で、田舎の家の裏手がこんな山だった。かつて多くの旅人が行き来していた東海道だということを忘れて上って行く。

 確信はあった。これだけ一日しっかり姿を見せていた富士山だったから、さった峠にたどり着いたときにその姿をしっかり見ることができると、午前中から感じていた。そしてじっさいその通りだった。

 展望台にはたくさんの車が来ていた。今日は絶好の富士見日よりに違いない。あちらこちらからシャッターの音がやむことがない。傾きかけた日を受けた富士の西の顔は、やわらかな赤みを帯びていた。

 興津駅の片隅で輪行パッキングをする。

 時間はまだ16時にもなっていない。

 興津駅はさった峠を下りたすぐの駅で、僕はここでサイクリングを終えた。

 

 時間からすればまだ明るいし走ることはできる。体力もまだあるようだ。でも、ここでやめた。ここで終わっていいと思ったから。サイクリングは走った距離を競うもんじゃないよね、とそもそも僕が長いこと走って考えていた根底に少し戻れた気がした。山を上っているときも時間を気にはしなかった。写真を撮りたくなったらそこで止って写真を撮った。景色を眺めたくなったら、ただ立ち止ってそうした。

 これでいいんだよね。これでいいんだと思う。少しは精神的リハビリになったかな。富士山が、今日一日ずっと、そこにあったからかな。