自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

三廻部(みくるべ)林道、尺里(ひさり)峠、足柄峠/メンヘル・サイクリング(Dec-2017)

 実は今悩んでいる。

 僕はなぜ自転車に乗るのか、なんで自転車旅に出るのか、わからなくなってる。自転車でどこへ行くのか、そこに何があるのか、行ってどうなるのか。

 今日はただ単に冬枯れの山あい風景を見たくてやってきたのだろうか、それさえも怪しくなっていた。でもそういうことにした。そうしないと自分を納得させる理由が、なくなってしまう。

 

 表丹沢と言っていいのだと思う。そこに三廻部林道という道がある。尺里峠という峠がある。その場所に前から興味を持っていた。三廻部林道は小田急線の渋沢駅新松田駅が最寄り、尺里峠へは同じく新松田駅かJR御場線の山北駅が最寄り。小田急や国道246号、東名高速といった交通の大動脈からそれほど離れない場所でありながら、ひなびた地であること、そして実は林道大国であるこの一帯を楽しみに、サイクリングを計画した。

 僕はここのところ何度か立て続けに乗っている、代々木上原駅7時06分発の急行小田原行きに乗った。東武本線から地下鉄千代田線に乗り継ぎ、小田急へつなぐルート。もちろん土曜日曜なので同じ会社員の顔が常連のように決まった座席についているわけじゃないけど、こう同じ列車に乗るとその不文律のなかに足を踏み入れていくような気分になる。

 代々木上原から乗って一時間以上。それまでも一時間以上を費やしているから、結果二時間半かけて渋沢駅の北口に降りた。

 それほど広くない駅前ロータリーの周囲には背の高いビルが取り囲むように建っていて、変に圧倒された。そこで自転車を組む。僕のなかのどこかにうつな気分がうずまっている。ウットは怖いからアロパノールを飲もうか。そんなことも考える。もっとも薬の手持ちはない。

 でもいらいらしたり不安がったりしながら自転車に乗る必要がいったいどこにある? そうまでして自転車に乗る?

 

 小田急線にはたいてい輪行サイクリストがいて余計なことを空想させる。本厚木で降りて宮ヶ瀬に向かうのか? 秦野か? ヤビツを何分で上らないといけないって言うんだ? 新松田で降りて明神峠を午前中にやっつけて道志へ向かうとか富士山行こうぜとか仲間うちで盛り上がってるのか?

 彼らの会話の声に耳をふさぎ、単独行がいてもその伝わってきそうな空気感を受け取らないように不自然な距離を置く。僕はひとりで居心地のよくない空間を、エンジのモケットの座席の上に作っている。

 なぜそんなことをするのか自分でもよくわからない。

 

 今日もすでに新宿から置かれた自転車が一台あった。途端に心地が悪くなる。代々木上原から乗った僕は離れた場所に自転車を置き、持ち主とおぼしき人から距離を置いて腰かけた。彼は僕を笑うだろうか。

 相模大野──降りない。本厚木──降りない。伊勢原──降りない。秦野──降りない。江の島でも宮ヶ瀬でも大山でもヤビツでもない。まさか同じ方面じゃないよな……。渋沢。しかし彼は降りない。僕は降りる。──どこ行くんだよ、渋沢丘陵か? それともその辺の田園散策か? ショボいな走れよもっと上れよもっとそれロードだろがママチャリじゃねえだろクロスじゃねえだろ。彼は、そう僕を笑っただろうか。僕は振り向かず走りゆく電車の車両も見ず改札への階段へ一直線に向かった。

 

(本日のルート)

GPSログ

 

 僕が自転車を組み上げるあいだ、あとにも先にも自転車乗りは現れなかった。ほっとした。小田急線の輪行に使われる駅としちゃマイナーなのか もしれない。

 そして駅から路地を進み国道246号を抜け、住宅街のなかの緩い坂を上って行った。

 道はだんだんと細くなっていく。センターラインが消え、路側帯が消える。それに合わせて交通量も減って行った。

 

 三廻部林道は、自転車で走っちゃ、本当はいけない。

 調べてみれば入口にある頑丈そうなゲートの写真がたくさん出てくる。でも横には自転車の抜けられそうなスペースが、渋沢側にも松田側にもある。三廻部林道を走っている人はこのスペースを抜けている。だから僕もそれを知っててやってきた。

 しかしゲートには自転車も通行禁止だと絵で示したものが掲げてあった。いつから掲示しているのかわからないけど、そもそもここは通ってはならないってことだ。──そうなのか、わかった。でも僕はそれをわかったうえで横のスペースから自転車で入った。

 

 ゲート手前から上秦野林道という道が分岐していった。これもまた気になる。

 

 ゲートがあるから当然、車の往来はない。バイクも原付も来ない。ふだん車の走らない道はこの時期、たいていどこも同じように枯れ葉で埋まっている。さらに通行がなければ、日陰では路面にコケが生えていたりする。三廻部林道は枯れ葉で覆われているけどコケはなかった。コケが生えないとすると、ときどき林道の関係車が通ったりしているんだろう。

 坂は続く。林のなかの坂は眺望もない。両側を覆っている木々は僕の斜度感を狂わせる。どれだけ上っているのかまったくわからない。でもメーターを見ると全然速度が出ていないのがわかる。時速7キロとか6キロとか。きついのか、あるいは僕が乗れていないのかがわからない。でも進まない。見た目の感じ明神峠のような強烈な坂じゃない、だから僕が乗れていないのだ力不足なのだと結論づける。

 まったく乗れていない速度のまま枯れ葉を踏みしめながら林道を進んでいると、眺望が一度開けた。

 おそらく南東方向の、秦野から二宮あるいは大磯、平塚あたりから海、その向こうに三浦半島。景色は白くかすんでいて、どこからどこまでが海でどこが対岸なのか、それが三浦半島なのかどうかもよくわからないけど、判然としない。しかしながら初めての眺望に、自転車を止めて写真を撮った。

 ──なんか面白くない。

 ここはきっと僕の好きな傾向の道だ。僕がいつも興奮を求めてやってくるタイプの場所だ。

 白がすみではっきり見えないからか? なんか違う。冬晴れの冷えて乾燥した空気ならあるいはくっきり見えるのかもしれないけど、だからと言ってそれが見えたら今日の僕は満足できるんだろうか……。

 

 三廻部林道では何人かの山歩きの人とすれ違った。みんな単独行で、みんな重そうなカメラと大きな三脚を携えていた。何を撮るのだろう。少なくとも林のなかの枯れ葉の道を走り、木々の切れ目から見つけた白がすみの湘南の風景を見ただけの僕には、彼らのインタレストを見出すことはできなかった。きっとこのあたりには明確な動機の源泉になる何かがあるに違いない。

 ピークを越えたようで道は下りに入っていた。枯れ葉を巻きこむたびブレーキとタイヤのあいだで音を立てる。初めそれを取り除きながら下っていたのだけど、そのいちいちが面倒になってやめた。ブレーキキャリパーからしゅうしゅうと音が鳴ったまま坂を下った。

 やがて、反対側のゲートに着いた。

 

 

 三廻部林道を走り終えた僕は、酒匂川の支流、中津川に沿って坂を下って行く。ここは松田町の寄といった。今日のルートは難読地名ばかりだ。三廻部(みくるべ)、寄(やどりき)、尺里(ひさり)──。

 下り道はきれいに整備された一直線で、キャンプ場や福祉施設が並んでいた。

 その道からちいさな橋のひとつで中津川を対岸に渡り、Uターンをするように方角を変え、また上り坂に入った。別の新たな山に入って行く。

 細い上り坂が続き、やっぱり思うように上れない。こんなにもきついの? 見た感じせいぜい数パーセントの坂なのに。今日は体調が悪いのか?

 明るくなり開けた場所は茶畑だった。

 僕は思わず自転車を止めて写真を撮った。いい景色だ。かなり僕の興味を引く風景だ。

 しかし、心底から高揚してこない。

 どちらかというと、上れないから写真を撮る口実に止ったんじゃないかって思われることに嫌気がさした。

 ──誰に? 誰がいちいちそんなことを思う?

 

 茶畑のなかの道はちいさな分岐を繰り返す。道なりとぱっと見でわかる道はいいけれど、判断に悩む場所はそのたびにガーミンを確認する。それでも細かな道でときどき間違える。

 疲れる。上りがいつになく疲れをためる。もっと楽に坂を上れなかったっけ? そういう方法と技量を僕は持っていなかったっけ? それ以上に勾配がきついのかい? いやどう見てもそんなふうじゃない。僕にとって楽しんで上れる、景色だって雰囲気だって高得点の道のはずだ。そんな坂がちっとも上れない。あせってペダルを回す。そして踏む。ガツンガツンと。

 

 尺里峠に着いた。

 どこが峠なのか判然としない場所だけど、ここを峠だと僕はそう思うことにした。

 

 第六天からの眺めと書かれているので、第六天が何やらも知らずにルートをそれてその道に入り込んでみた。すると目の前に大きな富士山が現れた。

 近い。そして僕はいつ以来この山を見たか思い出そうとしている。思い出せない。僕は今年、富士山の運に見放され、きちんと見た記憶がない。もしかしたら今年にして初めてなのかもしれない。この年の瀬にして。

 第六天が何かわからぬまま尺里峠に戻り、そこから僕がルートとして用意してきた道はダートだった。別に舗装路が道なりに続いていて、初めそっちに入り込んだが、ミスコースにすぐ気づき、それでも急な坂をほんの少しだけ上り返して戻った。地図を見るとその舗装路をたどっても問題なく合流できそうだけど、せっかく引いてきた道だから、ダート道のほうを選ぶことにした。

 

 その道は、まず富士眺望に関して言えば満点の道だった。木々の切れめ切れめから、何度も僕に富士山を見せた。僕は今年のほぼなかった運を取り戻すために、何度も自転車を止めることになった。

 

 尺里峠からの下りは勾配がすさまじい。感覚的だけど15%とか20%とかそんな箇所もあるんじゃないだろうか。ダードが終わってからも舗装も良くない。下るのだってしんどいから、山北側から上らなくてよかったと胸をなでおろした。

 

 下ってきた集落のなかに、ごく自然に古い木造校舎が現れた。分校だったその小学校はもう廃校になり何年もたっていた。きっとその日は閉校式があっただろう。そしてその瞬間から変わらず、そのままにしてあるに違いない。古いし、機能していないことはにわかに察知できるけど、でもそのときまで生きていたのだと感じられた。ちいさな校庭をひとまわり。そして校舎の前、日だまりのなかで僕は補給用に持ってきたバーを口に運んだ。あらためて眺めると、まるでそこで時間を切り取った写真のようだった。

 

 

 下った山北の駅で休憩を取った。

 今日初めてスポーツ自転車を見た。駅前で輪行袋から取り出して組み立てているマウンテンバイクと、どこかの店で休憩しているロードバイク。ひと気はないがタクシーだけはたくさんいる駅前の光景を眺めつつ僕はこれから先の三つの選択肢からひとつを選んでいた。

 今日のサイクリングは三廻部林道と尺里峠を走ることが目的だったから、距離は短いもののここで終わりにするつもりだった。ただここで本数の限られる御殿場線に乗るよりも小田急の駅まで走って行こうとルートを持ってきている。ひとつは国道246号と周辺県道を使って新松田へ抜けるルート。もうひとつは酒匂川に沿って下り、小田原へ抜けるルート。小田原ルートは酒匂川を楽しむというよりは小田原始発の電車に乗れるメリットを考えていた。

 それらとは別に、前日になってさらにひとつ、ここまでだと距離もずいぶん短い(30キロに満たない)から、ぐるっと足柄峠をまわって行ってもいいじゃないかとルートを引いた。せっかくだから、と思った。

 

 僕は山北駅を出発すると西へ向かった。3番目の、足柄峠をまわるルートを選んだ。

 30キロしか走っていない今日のサイクリングに、弱みを感じたから。

 ──何に? 誰に?

 

 三廻部林道と尺里峠は、僕にとって──今日の僕にとってかもしれない、そうであってほしいけど──きついコースだった。上ることで疲労し体力を使い果たした結果、下りさえ楽じゃなかった。ブレーキをかけることもおっくうなほど、くたびれていた。そんな上り下りを二本。終えて下りてきた山北は今日のサイクリングを終えるのにじゅうぶんだと言える。なのに、30キロのサイクリングという「足りなさ」感に縛られ、よく吟味もせず付け加えた足柄峠というもうひとつのテーマに臨むことになってしまった。自分で自分を妙な迷路に追い込んでる。その「足りなさ感」なるものは、「物足りなさ感」とは完全にノット・イコール。馬鹿げている。

 

 谷峨から県境を越えていよいよ静岡県へ入った。駿河小山御殿場線の駅を横目で見つつ通り過ぎ、線路沿いの県道を足柄峠への入口へと向かっていった。

 シャッターを開けることのなさそうな商店の前に自販機があった。自転車を止めた。振り返ると今走ってきた道が僕の好むS字カーブを描いている。小山町の街区を眼下に望みながら、走ってきたS字カーブを眺めながら、ここで缶コーヒーを買って休むことにした。

 疲れているっぽい。ふだんブラックなのに、ミルク砂糖入りを選んでた。そんなことおかまいなしに空ばかり青い。

 

 結果、足柄峠は、きつい峠だった。

 斜度がふた桁の箇所もあったのではと思う。

 距離もそこそこあって、7キロ。

 少なくとも三廻部林道と尺里峠ですっかり疲れ果ててしまった僕が、せっかくだからとか、一日のサイクリング距離に弱みを覚えてとか、言っている場合じゃなかった。走り続けることがつらくて仕方なかった。7キロという距離も長かった。明神・三国峠にもあった同じ「カウントダウン標識」を見るのがつらくてしょうがなかった。しかも明神・三国峠よりも距離が長かった。

 僕はやめたかった。もう何度も走ることをやめようと思った。カーブひとつごとにそれを考えた。しかしやめてもどこにも戻ることはできなかった。この道に入り込んでしまった以上、上り切り、そこからひと息に下って新松田駅へ走り切るしかなかった。エスケープの取れないルートを、僕は引いてしまった。

 ──何で走っているのだろう。何のために。

 

 駿河小山から足柄峠へ向かう県道365号は富士山と愛鷹山を望む絶景の道路だった。道もいい。風景もいい。

 しかし僕はその絶景のなか、下を向き鬱を抱えながら上る。今すぐやめたい。メンヘル

 ここはきちんとした計画立てと情報収集、そして自分のポテンシャルに見合った戦略を用意したうえで来るべく道だった。よれよれで、しかしながら上り切ることを考えると止ってしまうことを容易にできない状況じゃ何も楽しめない。馬鹿げている。

 

 

 新松田駅前の、これまたいつもの箱根そばで昼食をとり、ホームへ行くとちょうど新松田始発の快速急行が現れた。

 車窓を流れる丹沢山系を眺めながら、今日はいったい何を楽しんだのだろうと自問した。三廻部林道と尺里峠というコースは間違いなかったはずだ。風景も悪くないし冬枯れの季節だって嫌いじゃない。

 秦野で輪行袋を抱えた女の子がひとり乗ってきた。自転車を置き、僕には目線を合わせず、微妙な距離感を保って席につく。ヤビツを走ってきたのだろうか。満足げに、彼女はそのまま眠ってしまった。

 僕は走らされたのだ。おそらくそういうことだ。

 じゃあいったい何に走らされたというんだろう。自分で日を決め自分で計画し自分でルートを引いたサイクリングがどうして自分のものじゃないのか。

 何かにとらわれているような気がする。何かに追いかけられている。距離を走らなくちゃいけない。坂を速く上らなくちゃいけない。平均時速がどれだけで、獲得標高はいくつか。

 僕は自分の自転車スタイルをスポーツと思って乗ってはいないし、自分自身がレースに出たりタイムを取ったりすることにいっさい関心がない。ローラー台にも心拍数にも興味がない。だからこれまでずっと、距離も標高も時間も速度も気にすることなく自転車に乗ってきた。行きたいところに行き乗りたいだけ乗り、その結果長い距離を走るときもあればほんのちょっとの距離のことだってあった。どこの峠を制覇したとか、そこに何分で上ったとか、意識したこともなかった。ずっと自転車に乗っていて、これまで考えなかったことだ。それでよかった。それが、楽しかった。

 自転車はここ10年ほどはロードバイクを使っている。楽だから。日本は舗装路がほとんどだし、多少の未舗装であっても僕はちゅうちょなく入って行ってしまうから、日本はロードバイクで事足りると思っている。ロードバイクであっても自転車に乗るコンセプトは変わらず、ただ自分の行きたい場所に、道に、自転車で行くだけだ。

 それが何かのきっかけか、変な意識が芽生えたのだろうか。峠をいくつ征服したとか、一日に何キロ走ったとか、どこの坂を何分で上ったとか。──いや、そんなことひとつも気にしていないつもりだけど。

 今日、坂を上るときにずっとメーターとにらめっこしてスピードの出ていないことを気にしていたし、そもそも距離が足りないのではと前日になって足柄峠越えを追加した。おかげでサイクリングの主題だった三廻部林道も尺里峠も印象が薄まってしまっている。あんないいところだったのに景色も見ずメーターを見、追加したルートのために記憶が押しやられ、そして走りながら時間を気にした。足柄峠をまわるなら山北の駅に何時には着きたいとか、そんなことだ。

 余裕がない。数字や結果が残したいのか。残したいのは記憶じゃないのか。

 

 コンセプトも考えかたも変わってはいない。僕はアスリートになる気はない。ノイズのように自分のなかにある何かをリセットしないと。そうしないと、自転車が楽しくなくなってしまう。嫌いになってしまう。他人の話を気にするな、他人のサイクリングを気にするな。他人の距離を意識するな、他人の獲得標高を意識するな。他人のタイムを気にするな。──そんなの、もうずっとやってきたことだ。

 リセット、リセット。いったんリセットしよう。