自転車旅CAFE

自転車旅を中心とした紀行文、紀行小説

南伊豆海岸線ルートの夏休み(Aug-2017)

 電車は横浜駅を出発した。窓に叩きつける強い雨が不安にさせる。今日もまた天気に恵まれていない。

 もともとは志賀草津道路、渋峠へ向かおうと思っていたのだ。列車の時間もきちんと調べ、標高二千メートル超の気温も考えて荷物も用意した。週間予報では初めから雨の予報で降水確率も高かったけど、日が近くなるにつれ良くなることだってあるって思っていたから準備だけは続けていた。じっさいそういうことだって何度もあった。でも一向に良くなる気配はなかった。早々にあきらめがつくほど悪くもならないのだけど、降ったりやんだりを繰り返す時間ごとの予報と、60~80%を行ったり来たりする降水確率は最後まで変わらなかった。

 金曜日、僕は渋峠行きをあきらめた。代わり映えのしない予報を見てもうこれからの好転は期待できないだろうということと、Mさんと一緒であることからもそう考えた。自転車に乗り始めて一年、期待とチャレンジで臨んでいるMさんは高地で雨に濡れることの不安を知らない。登山じゃ、雨に濡れることは厳禁で、結果低体温症を起こしたり最終的には命の危険をおびやかす。ゆえに雨に対する構えと雨具の重要性が力説される。山間部をゆくサイクリングだって同じだ。気温20度を割ることは想像ができるから、濡れることは避けなきゃならない。

 じゃあ僕ひとりだったらどうしていただろう、と考えたらやっぱり早々にやめただろうなと思った。人を連れて行くという主題がなくなれば、今それほど渋峠に対するモチベーションがあるわけじゃなかった。その余りある良さや魅力はわかっているけど、この夏に行かなくてもいい。


 天気予報を見た。

 関東甲信越南東北、どこも傘マークだった。傘マークがないのは愛知県より西と伊豆の南端だけだった。

 根拠はそれだけ。これから南伊豆を走る。


(本日のルート)

GPSログ



 同じ東海道線の列車に、二週間前に乗っていた。18きっぷを使い、伊東まで乗り、西伊豆の尾根を走った。

 しかしそのときと混雑がまったく違う。先々週はガラガラだったけど、今回は東京からすでに立ち客がいた。ちょうどお盆休みが始まった土曜日だ。

 伊東線の接続列車がリゾート21であることは、二週前の乗り継ぎでわかっていた。今日は伊東ではなくさらに一時間余計に乗るから席の確保もしなきゃならない。熱海に着くと乗客が駆け出す。18きっぷシーズンのよくある光景とはいえ、わが身にかかわると不安になった。

 しかしながら乗客の多くは下り東海道線JR東海の静岡行きに向かった。それを見て僕はホッとした。リゾート21に乗るには早めの到着だったから入線後、無事席も確保できた。あとは雨の心配だけだ。


 リゾート21に一時間半近く揺られ、下車は稲梓駅西伊豆にある松崎町に向かうにはおそらくいちばん近いと思い、選んだ。伊東ではまだ怪しかった天気も、熱川や稲取あたりで正しい選択だったことを予感させた。河津では路面を見ても雨が降った気配さえなかった。

 稲梓の駅前は猫の額くらいの広場。そこで自転車を組み、担いで急な階段を降りる。駅前に直接アプローチできる道路はない。道路からは狭い階段路を上って駅に行くのだ。変わった駅だ。知らなきゃここまでやってきてもどこに駅があるのやらわからない。

 階段を下りて駅へのアプローチ車道に出ると線路ははるか上に見えた。ちょうど、スーパービュー踊り子がゆっくりと、ガーダー橋を渡っていった。


稲梓駅へのアプローチの階段

▼ ガーダー橋の高みを渡るスーパービュー踊り子

 バサラ峠へ向かう県道15号・松崎街道は単調な上りだ。僕の印象のなかで、西伊豆との行き来をする連絡道路としてしか位置づけられていないからなのか。ツーリングマップルを見ればおすすめ道路である紫の縁取りがされているし、後ろを走るMさんは「ここはいいところだ」と口にしたのだけど。

 婆娑羅山は標高600メートルを超える山だが、バサラ峠は270メートルにある婆娑羅トンネルで抜ける。そう高くはない峠なのだけど、なぜか僕にはいつもつらく感じる峠だ。調子の良くないときに越えることが多いのも印象が悪いかもしれない。西伊豆をサイクリングして疲れ果てて先の計画を捨て、このバサラ峠を越えて稲梓駅から輪行して帰るって、何度やっただろう。

 今日はまだいい。一日の最初に越えているから。


 峠を下ると松崎の町に入る。県道15号は那賀川に沿うようになる。河原は延々と続く桜並木だ。残念ながらここに桜が咲いた時期を知らないけど。

 やがてなまこ壁の街なみに入る。他じゃ見られない独特の景観。回転寿司の外壁のイミテーションじゃなく、どこも平瓦を並べ目地をしっくいで埋めた本物のなまこ壁だ。防水や耐蝕、防火にも効果があるという。街を散策しつつ、一軒の和菓子屋に立ち寄って休息を取った。


▼ バサラ峠を越える婆娑羅トンネル

▼ なまこ壁の松崎の街なみ

 ここからは南伊豆へ向けて、西岸を南下する。国道136号・マーガレットラインである。

 街を離れてすぐに道は上り坂にかかる。すると入り江になった松崎の街と、その端に湾曲した砂浜が一望できた。広くない砂浜には色鮮やかなパラソルやビーチテントが並んでいた。そう近くもないのに海水浴ではしゃぐ声が届く。僕はその光景とその声に懐かしさを覚えた。同時に、夏休みって言葉がすぐに浮かんだ。

 海水浴は正直言うと好きじゃなかった。水に入ることと日焼けで疲れるし、着替えや砂まみれになった身体を流す面倒さが嫌だった。海に入って泳ぐか砂の上で過ごすか、それしかないことが退屈なのだとすぐに気づく。海水浴とはその時間が過ぎるのを待つばかりだと子供ながらに感じていた。でも、夏休みは海水浴をするものだと思っていた。そう、むかしは何々だからこれこれする、という理屈や裏付けのない決まりごとがたくさんあった。会津の、ならぬことはならぬのです、のような。

 夏休みだから海水浴に行く。


 道は伊豆半島独特のアップダウンをくり返し、果てしない海を見せつける。入り組んだ地形からの方角で、それは駿河湾であったり太平洋だったりする。

 気づくと、ちいさな入り江があるたびにちいさな浜があり、そこが海水浴場になっていた。どこもパラソルが並び歓声が上がっていた。入り江を通り過ぎるたびに、夏休みの風景がそこにあった。


▼ 松崎の海岸線

雲見温泉の海水浴場

▼ 雲見の温泉街も海の町を感じさせる


 雲見を過ぎると国道136号は内陸へ入る。ぐんぐん丘を上っていく。こうなると暑さを感じる。ボトルの水を飲みながら進むけど、周りを見まわしてもコンビニはない。そういえば松崎町の中心街に入る手前、県道15号沿いにあったコンビニ2軒が最後だった。商店は海水浴場の近くにいくつかあったと思う。しかしながら内陸に入ってしまった今、もう何もない。このボトルが空になったら終わりだ。

 坂のピークで松崎町から南伊豆町へ入った。そろそろ休憩したいなと思う。波勝崎への分岐を分けたあと、展望台とドライブインがあったので立ち寄った。

 扉を開けるとクーラーの効いた室内。それでも暑かったし、なにか口に入れたかったので、ソフトクリームを買った。

 伊豆に来ると僕はよくわさびソフトを選ぶ。ピリッとあとから来るわさびの辛味が美味しい。だから今回もわさびソフトを選んだ。

 しかしこれは初めてのわさびソフトだった。わさびなのだ。かなり辛い。ソフトクリームの甘味を欲して、パクパクと食べることができない。ひと息に食べるとつんと、強烈な辛味が襲ってくるのだ。こんな辛いわさびソフトがあるのか──。

 甘いコーヒーが飲みたくなった。僕は外へ出て、缶コーヒーを飲んだ。いつもならブラックを選ぶけど、今回はミルク砂糖入り。ここは展望台。太平洋の海を眺めながら甘いコーヒーを飲んだ。


 長い下りを0メートルまで下ると妻良(めら)。ここもまた漁港と海水浴。すべての町、すべての入り江の風景が夏休みの決まり事を外さない。

 妻良からはまた上りで、伊豆半島最南端、石廊崎を目指して走る。そして僕はひそかに、一年半前にここを訪れて口にすることができなかったさんまの姿ずしを食べたいと思っていた。アップダウンを繰り返し、進路を南に取る。下田へ向かう国道136号と分かれ、さらに南端を目指す県道16号に入る。入間海岸への道から車が出てきてそして入れ替わり入っていく。道からは見えないけど、きっとほかの海水浴場同様にぎわっているんだろう。あいあい岬の奇岩を横目で眺めながら石廊崎を目指した。


伊豆半島の突端、石廊崎

▼ 断崖、岩礁をめぐる遊覧船


 残念ながらさんまの姿ずしを食すことはできなかった。着いたときにはもう店がシャッターを半分下ろしていた。前回は店には入れたもののさんまの姿ずしがなかった。前回よりも遅かった気もしないのだけど、お盆休みで人出が多いのか。並びのほかの店に入り、ラーメンを食べた。ふのりとワカメがたっぷり乗った、磯の香りの美味しいしょうゆラーメンだった。

 石廊崎灯台まで自転車を押し、そこに置いて岩の階段を突端まで歩いた。石室神社に参り、伊豆の最南端を制覇。どこまでも続く長い水平線は、同じ太平洋ながら銚子で見た海とはどことなく違う雰囲気を感じた。不思議だった。


 石廊崎から下田へ向かう区間は海岸線を走る箇所が多く、海にも近いから楽しい。今回は弓ヶ浜から田牛(とうじ)にもまわってみた。夕刻17時、浜は物寂しげで森に入ればツクツクボウシとヒグラシが鳴いた。むかしから言葉だけ聞いてはいた田牛のサンドスキー場を初めて目にした。砂の急斜面が当たり前のようにそこにあった。観光のために造られた人工的なものかと思っていたのだけど、そうじゃなかった。強風で舞い上げられた砂が堆積して斜面を造った、天然のスキー場だった。知らなかった。ソリを持って駆け上がって滑り降りる若者がいる。思ったより狭い場所だった砂の斜面は、薄暗くなってきた夕暮れの色を反射していた。

 もうすぐ、夏休みの日も暮れる。

 そういえば心配していた雨なんて、丸一日気にする由もなかった。


▼ 気持ちのいい石廊崎から弓ヶ浜への海岸線

▼ 田牛のサンドスキー場

 道は下田が近くなるにつれ、みな国道136号に集まる。田牛の海を走った市道も吉佐美で合流する。さっき分かれた弓ヶ浜での県道16号もそうだったけど、この合流箇所がみな渋滞している。そして何度目かの青信号で国道に合流すると、ここはもう動かない大渋滞だった。まだ下田まで5キロ近くあるんじゃないだろうか。

 やっぱりお盆休みの人出って桁が違うのだ。



 渋滞する、人の車の心配をしている場合じゃなかった。

 ゴールした伊豆急下田駅の構内はあふれるほどの人混みだった。きっぷを買うのも困難なほど。

 手早く輪行パッキングを済ませてみると、その人混みはちょうど発車前の特急踊り子の改札を待つ人たちだったようで、すでにがらんとしていた。

 でもきっぷを買い、ホームに入ってみると安心できる状況じゃなかった。僕の乗ろうとしていた普通列車の伊東行きも同時に改札をしたようで、3両編成の列車はすでにいっぱいだった。仕方がない、お盆休みなのだ。

 結局、伊東で乗り継いだ熱海行きの列車まで含めて、1時間40分の帰路を立ちぼうけで帰ることになった。